第一章:邪教

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「あなた、何を言っているの!?」  首根っこを(つか)まれて、あっという間に金剛から引き離された。  最初、真矢子か司恩が激昂(げきこう)していると思った。やはり“ぬゑらぜ”という発言は不適切保育だったのだ、と。ベテランの保育教諭や幼児教育の研究者からすれば、許されざる対応だっただろう。  だが、叱責の主は、理外にも千佳だった。  瞬間、脳内が純白一色に染め上げられた。  何で、どうして、よりにもよって、この人に責められているの?  ホワイトアウトで思考がさっぱり回らない。 「子どもに活動を強制しないって、学校で習ったはずでしょうが! あなた、それでも本当に四大卒なの!?」 「でも、その」 「言い訳は聞きたくない! もう一度学び直してきなさいよ!」  眼前でヒステリックにがなり散らされているはずなのに、遥か彼方の出来事のように感じる。金切り声がぼやぼやと不明瞭に反響している。  あれ、なんかおかしくない?  エプロン越しに胸ぐらを掴まれたあたりで、ようやく事態が飲み込めてきた。  千佳は、普段の行いを棚に上げて、好き放題鈴音を責め立てている。理不尽この上ない状況下に置かれていた。  主張が御尤(ごもっと)もだとしても、認められるはずがない。  普段から“ぬゑらぜ”の名を(つぶや)いているのはどっちだ。むしろこちらが糾弾(きゅうだん)したいことばかりである。ふざけないでほしい。それに、外部の人間がいるのに、これ見よがしに晒し上げている。()えてやっているのか。責め方に悪辣(あくらつ)さを覚えてしまう。  恩師も学生たちも呆気にとられている。目が点だ。突然繰り広げられる罵倒ショーに困惑の胸中だろう。  ああ、どうしてこうなるの。  いいところを見せようとしただけなのに逆効果だった。穴があったら入りたい。飛び込み前転で消えてしまいたい。  ちょっと待って。  いたたまれなさで身を焦がす、その一歩手前で、不自然な現状に気付いた。  わざと人前で責め立てている?  違う、順序が逆だ。園関係者以外の前でその名を口にしたから、烈火の如く怒っているのだ。子どもが云々(うんぬん)は叱責の口実に過ぎず、本当の目的はこれ以上しゃべらせないこと。実際、千佳は“ぬゑらぜ”と言った件について一切触れない。意図的に避けているのだ。  外部に知られたくない。正体不明の存在を崇拝していると、秘密が漏れるのを恐れている。そう推理すると得心(とくしん)がいく。  言葉の暴力に耐えながら、視線を床に這わせる。  この場から一番近い、部屋の隅へ目をそっと向けると、そこに奇怪な印はなかった。上からシールが貼られている。わざわざ床と同じ色でカモフラージュだ。単純だが妙に手が込んでいる。  やはり、隠そうとしているのだ。間違いない。 「まぁまぁ、勝山先生。その辺にしておきましょう」  遅れて真矢子が割って入り、公開処刑の仲裁をしてくれる。ニコニコ笑顔は絶やさずに、絶対中立の事なかれ主義を貫きながら。  司恩と学生らは気を遣ってか、そそくさときいろ組を後にする。「他のクラスも見学しようか」とだけ言い、嵐のような暴言について全く触れずに淡々と。  有難(ありがた)い判断だ。千佳の行動を(とが)めてもらいたい気持ちもあるが、原因が“ぬゑらぜ”発言にあるとすると、これ以上刺激するのは悪手かもしれない。理不尽な仕打ちは悔しいが、ここは穏便に済ませてもらいたい。  千佳の罵声に子ども達は怯えてしまい、内数名は泣き出して大騒ぎだ。おかげで活動はグダグダのまま終了。続きは後日に持ち越す運びとなった。  金剛は変わらず虚空を見つめ続けていた。 ※  正午過ぎには見学の時間も終わり、釈明する暇もなく、司恩は大学に戻ってしまった。給食から午睡にかけての繁忙タイムでは余裕ゼロ。ゆっくり食事をする時間すらないのだから、外部の人と雑談する時間なんてあるはずない。 「さっきは大変だったわねぇ」  子ども達が全員入眠した頃合いで真矢子に呼び出された。場所は初夏の涼しい風が吹き抜ける廊下の陰だ。第一声は他人事のような憐みだった。  不用意な発言をした自分にも非があるだろう。しかし、きいろ組のリーダーとして、千佳の行為を咎めるのが真矢子の仕事ではないのか。特に子どもの前で言葉の暴力を見せつけるのは、心理的虐待にあたる可能性もある。  一回り以上年下の相手に舐められているのも、過剰に平和を求めて議論を放棄した、自身の事なかれ主義が一因なのでは、という気もしてくる。 「これでも食べて、元気出してね」  手渡されたのは、可愛くラッピングされたクッキーの詰め合わせだ。手作りなのか少々(いびつ)だ。そういえば以前、お菓子作りが趣味だと話していた。余った分を、こうして職場で配っているのだろう。 「ありがとうございます」  小さく礼をして、エプロンのポケットに仕舞う。後でゆっくりいただこう。  しかし、それはそれとして。お菓子でお茶を(にご)すよりも、同僚の千佳に物申してほしい。新人の身で言うのはおこがましいかもしれないが、目に余る言動や行動には毅然(きぜん)とした態度をとってもらいたい。 「でもねぇ」  だが、そんな淡い期待は、次の瞬間、跡形もなく消し飛んだ。 「“ぬゑらぜ”様の名前を出すのは良くないと思うの」  呼吸も鼓動も同時に凍り付いた。  まさか、真矢子の口から、その単語が飛び出すなんて。  いや、冷静に考えてみれば、別段あり得ない話ではない。園舎の至る場所に(くだん)の印が刻まれており、教材倉庫には冒涜を()とした神棚と謎の置物がある。園全体がおかしいのだから、彼女も千佳と同類であっても不思議ではない。  だが、こうして実際にその名を口にされると眩暈(めまい)がしてしまう。  真矢子もどっぷり浸かっているのだ、カルト宗教あるいは悪魔崇拝と(おぼ)しき思想に。  こうなったら、もっと上の者に相談するしかないのか。否、無駄だろう。それは既に分かりきっている。
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