第一章:邪教

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 なんて酷い曲だ。一体誰が演奏しているの!?  両耳を掌で塞ぎながら、そろりそろりときいろ組を覗き込む。果たしてそこには、悩みの種である千佳がいた。  まさか、という気持ちと、やはりか、という気持ちが同時に湧いてきた。  彼女の技術は園でも随一だ。入園式では園歌を流れる水のように淀みなく弾いていた。音痴もびっくりの狂った演奏をするはずがない。だが一方、普段の行いが目に余るのも事実。園でも指折りの異常さを考慮すると、不愉快な演奏を始めてもある程度納得はいく。  宗教音楽の一種だろうか。  子ども達がいなくなり、保護者の目もない状況で練習に励む。隠したがりな園の方針からすれば不思議ではない。しかし、いつかどこかで披露するはずだ。保護者はまだしも子ども相手に隠し続ける理由は何だろうか。  などと、背後のカルト宗教あるいは悪魔崇拝について考察していたが、直後、全ての思考が吹き飛んだ。 「――ッ!?」  反射的に悲鳴が出そうになり、慌てて口を押さえた。  扉の窓ガラス越しに見た、千佳の演奏する姿に総毛立った。  アレは何。どうしてあんな風になっているの!?  見間違いかもしれないと、(おのの)きながらも確認しようと、もう一度そっと覗き込む。  現実だった。  千佳が、白目を剥いて鍵盤を叩いていた。  暗譜しているから、眠気に抗い弾いているから。  それらしい理由を引っ張ってきても、アレの前では全てが虚しい推測だった。  ただの白目ではない。彼女の黒目は上下左右、円や八の字を描くようにぐりぐりと縦横無尽。右目と左目が別々の動きをしており、まるでカメレオンのようだ。しかも、(よだれ)をだらりと垂らしており、口角には泡が溜まっている。  曲も弾き方も、何もかもが異常としか言いようがない。  気持ち悪い。空腹の胃袋から消化液が逆流しそうになる。二階の倉庫で青緑色の大道具を発見した時と同じ感覚だ。本能的にそれらを忌避している。  今日は早く帰ろう。  不気味な演奏は見なかったし聞かなかった。  計画書はまた明日やればいい。参考書のコピーも後回しだ。  鈴音は職員室へと(きびす)を返し、いつも以上の手際で帰り支度を始めた。 ※  雨が降り続いている。  六月に入ってすぐ、三日連続で土砂降りの大雨だ。園庭は水浸しで小さな池と化し、波紋と水滴のタップダンス会場になっている。  先月末に梅雨入りしたせいで、鈴音の保育計画は(はかな)くも無残に崩れ去った。まさか初日から立て続けで雨天になるとは、と愕然(がくぜん)としてしまう。頭が痛い。天気のせいもあるだろう。  もちろん、雨天の可能性も考慮して予定は立てられている。臨機応変に切り替えるのが肝要だ。とはいえ、できることは限られており、連日となれば尚更活動範囲は狭まっていく。元より室内で遊ぶか園舎内を散歩するくらいしか選択肢がない。不自由で代わり映えのしない保育が展開されている。  きいろ組は(はち)の巣を突いたような騒がしさだ。外遊びは不可能で、有り余る元気を発散する先がない。大人数を狭い保育室に閉じ込めているため、どう足掻(あが)いても子ども同士で衝突が起こる。おかげでストレスは最高潮、そこかしこで喧嘩が勃発している。言語が未熟で発達途上のため、口より先に手が出るのも日常茶飯事だ。酷い場合は噛みついてしまう。そうなれば、被害者加害者双方の保護者に報告しなくてはならない。神経質な親だと更に一悶着ある。保育者の思う、可能な限り避けたい事態ランキング上位だろう。おかげで子どもの間に割り込み仲裁、未然に防ぐのに奔走(ほんそう)してばかりだ。精神的に参ってしまう。 「あーもうっ、静かにしなさい!」  千佳がヒステリックに叫んでいる。  ストレスが溜まるのは子どもだけではない。じめじめした気候で外出できないとなると、誰だって気が滅入ってしまうだろう。その気持ちは分かる。だが、余所(よそ)でやってもらいたい。おかげでクラスの半数近くが怖がり泣き出す始末だ。勘弁してほしい。  絶叫号泣で大合唱。この音波攻撃は人によって騒音だろう。もし市街地のど真ん中だったら、近所迷惑だと苦情が殺到するに違いない。住宅地から離れた台地に建っているのは不幸中の幸いだ。子どもと保護者に加えて近隣住民の相手なんて、職員のキャパオーバーは確実だろう。 「みんなー、絵本を持ってきましたよー」  見かねた真矢子が助太刀に入る。手遊びを導入に子ども達の興味を引き、スムーズに楽しい時間を展開している。無理に泣き止ませるのではなく、別の物に意識を向けて落ち着かせているのだ。咄嗟にできる手腕はさすがベテランだろう。  六月の担当は自分なのに。不甲斐なくて自己嫌悪に陥りそうだ。大学で学んだ技術は何一つ活かせてない。もっと頑張らないと。焦りだけが先行してしまう。  それにしても。  保育室の隅が定位置になりつつある金剛へと目を向ける。  彼は何事にも動じない。周囲の子が泣き出しても、我関せずと黙々と積木遊びに取り組んでいた。真矢子が絵本を読み始めても興味を示さない。  他に特筆する反応は、時折どこかに視線を送っていることくらいだ。やはり、そこには何もない。  いや、違う。  今、見つめている先にあるのは、幼児用の椅子だ。  それも、十九人目の、座る主のいない、あの印が刻まれた席である。  彼も気になっているのだろうか。幼心に何故一脚多いのかと疑問視している可能性は高い。それとも他に理由があるのか。  真意を聞いてみたい。でも返事はない。もっとお話してほしいのに。  クラスの殆どが言葉で気持ちを伝え始める中、彼だけがボディランゲージばかりだ。そろそろ発達の面で心配になってくる。
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