第一章:邪教

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第一章:邪教

 桜が散り緑薫る季節の入り口に立つも、早朝は未だ冬の肌寒さを保っている。  深く息を吸い込むと、鼻の奥がツンとする。刺激で瞳が潤んでしまう。  時刻は現在、午前六時。  アップダウンの多い路地を、自転車に(またが)りひた走る。  自宅から職場まで、歩くには遠く車を使うには近い、とても微妙な距離だ。そもそもの話、免許があっても車がない。いわゆるペーパードライバーだ。選択肢は無きに等しかった。  ペダルを漕ぐこと二十分。市街地から人気(ひとけ)のない高台へ、急勾配(きゅうこうばい)の坂を登り切り、職場の入り口に辿り着く。まだ誰も来ていないらしく、どんよりとした静寂が(たたず)んでいる。一瞬躊躇(ちゅうちょ)してしまうが、入らざるを得ない。仕事を放棄する訳にいかないのだ。  にじいろこども園。  X県Y市の塩井台(しおいだい)に位置する、Z教育大学附属の幼保連携型認定こども園だ。十年前に開業したばかりで、その外装は真新しく名前の通りカラフルなに彩られている。園舎はこじんまりと可愛いサイズで、園児数百三十五名をギリギリ受け入れている大所帯だ。施設周辺は木々に囲まれており、緑の中にぽつんと建っていた。  園児が登園する前に、保育の準備を終わらせないと。  正門を開けて敷地に入り、昇降口の施錠をカードキーと暗証番号で解除する。施設内に滑り込むと足早に更衣室へ。黒々とした長髪をシュシュでポニーテールに纏め、花柄のエプロンを被り紐を手早く結ぶ。  身支度を手短に済ませると職員室へ向かう。業務開始の時間を記録するためだ。霧島(きりしま)鈴音(すずね)は自身の名が刻まれた札を手に取ると、タイムレコーダーに(かざ)して読み込ませる。退勤できるのは何時間後になるだろうか。と、盛大に溜息をついてしまう。 「今日も仕事が始まるのね」  忌憚(きたん)なく言えば、鈴音は陰気を体現したような女性だろう。幼少期より人付き合いが苦手な、教室の隅で縮こまっているタイプだ。明るさとは無縁のキノコみたいな性格をしている。  そんな鈴音が、何故保育という陽気な雰囲気(ほとばし)る職業を選んだのか。はっきり言って、自分自身でもよく分かっていない。  恐らくきっかけは、高校生時代の地域交流を兼ねた職業体験だろう。教師が勝手に決めた行き先は近所の保育園。そこで子どもの純粋さに心を打たれた。学校で爪弾(つまはじ)きにされる自分にも、分け隔てなく接してくれる子ども達。そんな彼ら彼女らのために仕事をしたい。ある種の使命感にも似ていた。  その後、保育士資格と幼稚園教諭免許状を取得するため、Z教育大学に入学するのだが、それから先、就職活動が問題だった。  実技の成績がすこぶる悪かったのだ。  音痴でピアノ演奏は(つたな)く、及第点には程遠い低空飛行。いくら保育知識が充実しようと、即戦力にならなければ現場には不必要。人手が足らないと言えど、役立たずはいらないのだ。加えて、生来のコミュニケーション能力の低さも足を引っ張り、お祈りメールばかりの惨憺(さんたん)たる結果に。同級生の内、就職先が決まらない最後の一人になってしまった。  そんな中、所属ゼミを担当する教授が助け舟として、にじいろこども園を紹介してくれた。  Z教育大学附属の名が示す通り、大学こども園共に学校法人Z学園が運営している。どうやらちょうど人員募集をしているとのこと。自宅からもそう遠くない距離だ。園バスもないので、運転を任される心配もない。条件は悪くない。むしろ恵まれている。そもそもの話、にじいろこども園を候補から外していたのは、系列の園に行くのは甘えだ、という無意味なプライドが発端である。もっと早く受ける決断をすれば良かっただろう。  ただ一つ、最低三年間留まり働き続けること、という条件が引っかかった。果たしてそんなにいられるだろうか。三年後のビジョンはさっぱり見えない。  だが、背に腹は代えられない。鈴音は二つ返事で就職した。  その選択は、失敗だったかもしれない。 「せんせー、おはよーございまーすっ!」  午前七時ジャスト。  早朝保育を受け入れる部屋、むらさき組に甲高(かんだか)い声が木霊(こだま)する。ツインテール揺らして飛び込んできたのは、五歳児クラスの田口(たぐち)桃華(ももか)だ。園指定のピンクのスモックは既に乱れており、挨拶(あいさつ)しながらドタバタ駆け回り落ち着きがない。  一方、弟は対照的で、無言でぺこりと小さなお辞儀をする。鈴音が担当するきいろ組、二歳児クラスの田口金剛(こんごう)だ。園服ではなくヒーローが描かれたTシャツを着ている。  姉弟とは思えないほど正反対、静と動の手本のような二人だ。ある意味、釣り合いが取れているのかもしれない。 「おはようごさいます。二人とも、今日も元気かな?」 「すっごくげんきだよー!」 「……ん」  桃華のはきはきとした返答に対し、金剛はまたも静かに頷くだけ。表情も乏しく、体調はおろか感情の起伏も伺えない。  一日のうち彼の声が聞けるのは両手の指で数えられる程度だ。担任になって早一ヶ月弱。その沈黙ぶりに、もはや慣れてしまった。毎日根気強く声をかけ続けているのだが、大した反応が得られないのだから仕方ない。もちろん、「きりしませんせい」と呼んでくれたこともない。きっといつか、たくさんおしゃべりしてくれる日が来るはずだ。と、気長に待つしかない。  二人が積み木で遊び始めるのとほぼ同時に、一人の女性が息を切らせてやってくる。桃華と金剛の母親である、田口うららだ。 「きょ、今日もよろしくお願いします。それではっ」  白いブラウスとプリーツスカートで身を包み、出勤直前の様相だが、顔の化粧は未完成でちぐはぐな印象を受ける。支度を後回しにして、我が子の登園を優先したらしい。二児の母とは思えぬ若々しい体躯なのだが、肝心の身だしなみに気を遣う余裕がないようだ。てんてこ舞いの家庭が目に浮かぶ。 「ママ、いってらっしゃーい」 「……」  姉弟に見送られ、うららは急ぎ園を後にする。途中、転倒したような悲鳴が聞こえた気がするが、空耳だと思いたい。
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