第一章:邪教

4/11
前へ
/12ページ
次へ
「代わりに返事をしておくわね」  頭を抱え一文字も書けぬ姿に察してか、真矢子が連絡帳を交換してくれる。ベテランとして手本を示そうとしているのだ。  しかしそこで、鋭く毒づく者が約一名。 「あなた、それでも四大卒なの?」  書き途中の連絡帳から目を離さず、千佳が悪意に満ちた言葉を放ってきた。 「私は短大卒だけど、新任の時から先輩になんて頼らなかったから。無駄(むだ)に時間かけて勉強しておいて足手まといとか、保育の仕事を舐めないでもらえる?」 「それは、その……すみません」  弁解の言葉が出かかったが、結局平謝りだった。  口答えしたところで事態が悪化するだけだ。更なる叱責が待ち受けているのは火を見るより明らかだろう。 「あと馬場先生も、甘やかしてばかりでどうするんですか。そんな調子だから、まともな後輩が育たないんですよ?」  小言ついでに、上司にもチクリと刺していく。  あの噂が事実だとしたら、再教育も兼ねたきいろ組への配属は効果なしだ。園児や後輩どころか、年上相手にすらこの態度である。  ただそれは、千佳本人だけの問題ではないだろう。 「あらやだ勝山先生ったら。ごめんなさいねぇ、うふふ」  失礼な物言いをされたというのに、真矢子はコロコロ笑うばかりだ。  ここはベテランとして、毅然(きぜん)とした態度をとるべきじゃないのか。面と向かって馬鹿(ばか)にされているのに、何故平気な顔で笑っていられるのだろうか。  徹頭徹尾平和主義。事を荒立てたくないのだろう。技術は高くとも上司としてあまりにも頼りない。もっとも、人のことをとやかく言えないのも事実ではあるが。 「ちょっと、この臭いって」  千佳の鼻がぴくつく。遅れて真矢子、鈴音も異臭にはっとした。  醤油(しょうゆ)ラーメンのスープを彷彿(ほうふつ)とさせる、香ばしく濃厚で独特な臭いだ。きいろ組の空気に薄っすらと漂っている。  本日の給食は白米が盛られた和食であり、誰かがラーメンの出前を取った訳でもない。近所に中華料理店はおろか建物がなく、台地のてっぺんで孤立しているこども園だ。  では何の臭いかというと、ずばり尿(にょう)だ。醤油ラーメンの臭いがする場合、昼寝中に誰かが漏らしたと相場が決まっている。 「やっぱり、トイレトレーニングは早かったんですよ」  わざと聞かせるように、千佳が舌打ち混じりで文句を吐く。  二歳児でも、月齢が高い子はおむつからパンツに切り替えている。尿意を言葉で伝え、自分の意志でトイレに行くための練習だ。その一環でパンツを履いて入眠する子がいるのだが、結果は御覧の有様である。  子どもは失敗を繰り返して成長するのだが、その都度後始末に追われて手間が倍増。しかもそれが最大十八人分。理屈は分かるも徒労感は否めない。  だがこれで、針の(むしろ)から抜け出せる。  漏らした子のパジャマと布団を替えるため、鈴音はそそくさとその場を離れた。 ※  午睡明けも戦争、相も変わらず火薬庫だ。  寝起きで機嫌が悪い子、眠り足らず起きない子、体力が回復して暴れ出す子。起床に時間をかけるほど、喧嘩の勃発(ぼっぱつ)率が上がっていく。  それでもどうにか乗り切った。午後のおやつを食べさせて、終わった後は外遊び。園庭からキャーキャーと、奇声にも似た歓声が反響して耳朶(じだ)を打つ。  鈴音の役割は保育室の掃除だった。子ども達は同僚二人に任せ、汚れた室内を綺麗さっぱり元に戻す。また明日、気持ちよく過ごしてもらうためだ。手抜きは許されない。  早朝からぶっ通しの労働で疲労困憊(こんぱい)だ。しかし、あと少しで勤務時間が終了する。もうひと踏ん張りと、体に(むち)を打って床を雑巾で拭いていく。至る所に小石や食べかすが転がっている。前者は怪我の元、後者は害虫を呼び寄せる元凶だ。丁寧(ていねい)()つ手早く取り除いていく。 「ホント、何のマークなんだろう、コレ」  部屋の四隅に彫り込まれた異様な印。  雑巾がけをしていると嫌でも目に付いてしまう。きいろ組だけでなく、他の保育室にも同じものが刻まれている。  一人分多い椅子も加味すると、ただの悪戯(いたずら)でないのは確実だろう。何らかの意図があるのだろうが意味不明だ。  それは形容しがたい奇妙な形をしていた。  帽子を被った人間の頭を極限までデフォルメして、仕上げに中心部を丸で書き込んだような。あるいは、見開いた瞳の絵に横一文字を引いたような。それとも歪んだ土星か、出来損ないのアダムスキー型円盤か。とにかく、説明困難なマークである。  謎の印や椅子といい、千佳の“ぬゑらぜ”発言といい、この園はどこかおかしい。目に見えた実害はないが、薄気味悪い雰囲気が立ち込めている。本能的な忌避感(きひかん)が体の奥底から湧き上がり、根源の分からぬ憂いに(さいな)まれてしまう。  それは、まるで――と、考えを巡らせたところで、きいろ組の引き戸が開かれる。 「悪いんだけど、頼みごとを引き受けてくれない?」  千佳だった。  噂をすれば影が差すと言うが、口にせずともやってくるとは。悪い意味でタイミングが良い。おかげで、極度の緊張から冷や汗がどっと溢れ出る。やましいことは何もないのに脇腹がキリキリ痛んでしまう。 「な、なんでしょうか」 「それがさ、来月の保育なんだけどね」  曰く、忙しくて教材準備に手が回らないので手伝ってほしい、とのこと。  本来であれば、五月の保育を率いる千佳がやるべき仕事だ。一部を補佐するとしても、大部分は本人が担わなくてはいけない。しかし、「新人は何事も経験だ」という、それらしい理由でごり押しされた。  さすがにそれは筋が違うだろう。と、はっきり拒否できるはずもなく、愛想笑いで引き受けてしまった。   悪い癖だ。自信がなくて優柔不断。安請け合いしては貧乏くじを引かされる。幼少期から全く成長していない自分に辟易(へきえき)する。  せめて、自分の気持ちをはっきり言えるようにならないと。  溜息混じりに、鈴音は残りの雑巾がけを済ませていく。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加