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本来の退勤時間は午後四時だ。そこから先は時間外労働であり、当然ながら残業代は出ない。記録上は残業ゼロの、クリーンな職場として法人側に報告するためだ。上が無茶な目標を立てたせいで、現場は余計に締め付けられてしまう。
それでも、自分のためならまだ良かった。今回は他人の仕事の肩代わりだ。割に合わない。骨折り損のくたびれ儲け、ということわざがお似合いだろう。要領よく生きる術が知りたい。
「お先に失礼するよ」
一旦、打刻のために職員室を訪れると、園長の日笠冬蔵と鉢合わせた。いつもスーツ姿で恰幅の良い、悪く言えば肥満体系の高齢男性だ。白髪は剪定に失敗した生垣のように禿げ上がり、足腰は脆弱で蝸牛の如き緩慢な足取り。見ているこちらの方が不安になる枯れ方だ。下手に園児と遊べば大惨事もあり得るだろう。幸い普段は園長室に籠り切りなので心配ないのだが、それはそれで問題に思う。たまには子どもと接してほしい。
「霧島君も早く帰りなさいよ」
好々爺然とした含み笑いを漏らしながら、よぼよぼ覚束ない足取りで園を後にしていく。
仕事が山積みと知って皮肉で言っているのなら、性格が悪いことこの上ない。だが、彼の場合、本気で何も考えず言った可能性が高い。現場の実情を知らないのだ。思慮浅く失言が飛び出すのも頷ける。もっとも、腹立たしい事実に変わりないのだが。
ああ、さっきからイライラしっぱなしだ。
現場の上司にも、職場全体の上司にも。無論、不甲斐ない自分自身にも。
重たくなった頭を垂らしたまま、職員室の引き戸に手をかけたところで、
「園長のことなんて気にするなよ」
ぬっと、後ろから首が伸びてくる。
弾かれたように振り返ると、筋肉質な肉体がそこにあった。
「はは、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
背後に立っていたのは、五歳児クラスを受け持つ一之瀬澄法だ。保育教諭二年目で、鈴音の一年先輩にあたる。
刈り上げた頭部のツーブロックが爽やかさを醸し出し、半袖Tシャツから覗く前腕のなだらかな盛り上がりが美しい。スポーティな細マッチョだ。肉体もさることながら、その相貌も見目麗しい。二重瞼に黒々とした大きな瞳、鼻梁のくっきりした彫り深い顔立ち。二次元の世界から飛び出してきたのではないか、とあらぬ錯覚をしてしまうほどだ。
「あ、あの、えっと」
口をあんぐり開けたまま硬直していた。
何か返答しなくては。あたふたと大急ぎで脳味噌を回転させるも、何も思いつかず言葉に詰まってしまう。ここは現実だ。ゲームのような都合の良い選択肢は浮かばない。アニメみたいな流暢な会話も不可能だ。自分とは正反対の、美形相手となると尚更である。
これじゃあ、変な後輩だと思われちゃう。
焦れば焦るほど顔が紅潮する一方で、まごつきばたつきどうしようもない。
「何かあったら、いつでも相談してくれよな」
口をパクパクさせている間に、澄法は踵を返して五歳児クラス、あい組の部屋がある二階へと戻っていく。姿が見えなくなったあたりで、階段上からわっと子ども達の歓声が響いてくる。園の中でも一位二位を争う人気で、他クラスの子どもからも好かれるほどだ。素直に憧れてしまう。
自分もあんな風になりたい。
でも、とてもじゃないが、なれるとは思えない。
彼の姿を目にする度に、鈴音の胸はじくじくと痛んでしまう。
※
教材倉庫。職員室とむらさき組の間に位置する縦長の区画を訪れる。
悪戯防止の鍵を外して引き戸を開けると、ぬるま湯のような空気が溢れ出す。掃除が行き届いていないせいか、悪臭一歩手前のキツい臭いが鼻腔を刺激してくる。
倉庫の至る所に段ボールが積まれており、棚に入りきらない分は乱雑に転がっている。それぞれから折り紙や画用紙が飛び出しているが、幾つかはあまり使われていないのか、埃が溜まって層になっていた。
元々狭い空間なのだが、所狭しと教材が犇めくせいで、余計窮屈に感じる。誰も彼も日々の保育に忙しく、整理整頓をする時間的余裕がない。園児や保護者が訪れる場所ではないのをいいことに、長年手を抜き続けているのが伺える。微弱な地震が発生しただけで、いとも簡単に崩れてしまいそうだ。長居はしたくない。早いところ済ませよう。
鈴音は段ボールから目当ての物を引っ張り出す。
任せられたのは教材の準備だ。五月に行う活動の一環で、葉っぱ型に切り抜いた画用紙が大量に欲しいそうだ。千佳からの注文は、できるだけ多く切り抜いておくように、とのこと。目標数が不明確だ。果てしない虚しさに気が遠くなる。
「そういえば、ここって確か」
アレがある場所だ。
今一つやる気が出ないせいか、誘われるように奥へと進んでいく。
初めて教材倉庫に入った際、その異様な光景が印象に残っていた。アレは未だ置かれたままだろうか。
うず高く積み上げられた段ボールジャングルを慎重に抜けていく。途中、崩れそうな箇所を適当に整えながら、倉庫最奥部まで踏み込む。
果たしてそこには、変わらずあり続けていた。
「やっぱりあった」
それは神棚だった。
注連縄や神鏡などの神具がない簡素な物なのだが、それ自体は特に不思議ではない。問題なのは、神棚が床の上に直置きされていることだ。
宮形と呼ばれる小さな神社が、打ち捨てられたように転がっている。
紛うことなき罰当たりな光景がそこにあった。
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