第一章:邪教

5/11
前へ
/12ページ
次へ
※  本来の退勤時間は午後四時だ。そこから先は時間外労働であり、当然ながら残業代は出ない。記録上は残業ゼロの、クリーンな職場として法人側に報告するためだ。上が無茶な目標を立てたせいで、現場は余計に締め付けられてしまう。  それでも、自分のためならまだ良かった。今回は他人の仕事の肩代わりだ。割に合わない。骨折り損のくたびれ儲け、ということわざがお似合いだろう。要領よく生きる術が知りたい。 「お先に失礼するよ」  一旦、打刻のために職員室を訪れると、園長の日笠(ひがさ)冬蔵(とうぞう)と鉢合わせた。いつもスーツ姿で恰幅の良い、悪く言えば肥満体系の高齢男性だ。白髪は剪定(せんてい)に失敗した生垣(いけがき)のように禿()げ上がり、足腰は脆弱(ぜいじゃく)蝸牛(かたつむり)(ごと)き緩慢な足取り。見ているこちらの方が不安になる枯れ方だ。下手に園児と遊べば大惨事もあり得るだろう。幸い普段は園長室に(こも)り切りなので心配ないのだが、それはそれで問題に思う。たまには子どもと接してほしい。 「霧島君も早く帰りなさいよ」  好々爺(こうこうや)然とした含み笑いを漏らしながら、よぼよぼ覚束ない足取りで園を後にしていく。  仕事が山積みと知って皮肉で言っているのなら、性格が悪いことこの上ない。だが、彼の場合、本気で何も考えず言った可能性が高い。現場の実情を知らないのだ。思慮浅く失言が飛び出すのも頷ける。もっとも、腹立たしい事実に変わりないのだが。  ああ、さっきからイライラしっぱなしだ。  現場の上司にも、職場全体の上司にも。無論、不甲斐(ふがい)ない自分自身にも。  重たくなった頭を垂らしたまま、職員室の引き戸に手をかけたところで、 「園長のことなんて気にするなよ」  ぬっと、後ろから首が伸びてくる。  弾かれたように振り返ると、筋肉質な肉体がそこにあった。 「はは、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」  背後に立っていたのは、五歳児クラスを受け持つ一之瀬(いちのせ)澄法(すみのり)だ。保育教諭二年目で、鈴音の一年先輩にあたる。  刈り上げた頭部のツーブロックが爽やかさを醸し出し、半袖Tシャツから覗く前腕のなだらかな盛り上がりが美しい。スポーティな細マッチョだ。肉体もさることながら、その相貌(そうぼう)も見目麗しい。二重瞼(ふたえまぶた)に黒々とした大きな瞳、鼻梁(びりょう)のくっきりした彫り深い顔立ち。二次元の世界から飛び出してきたのではないか、とあらぬ錯覚をしてしまうほどだ。 「あ、あの、えっと」  口をあんぐり開けたまま硬直していた。  何か返答しなくては。あたふたと大急ぎで脳味噌(のうみそ)を回転させるも、何も思いつかず言葉に詰まってしまう。ここは現実だ。ゲームのような都合の良い選択肢は浮かばない。アニメみたいな流暢(りゅうちょう)な会話も不可能だ。自分とは正反対の、美形相手となると尚更である。  これじゃあ、変な後輩だと思われちゃう。  焦れば焦るほど顔が紅潮する一方で、まごつきばたつきどうしようもない。 「何かあったら、いつでも相談してくれよな」  口をパクパクさせている間に、澄法は(きびす)を返して五歳児クラス、あい組の部屋がある二階へと戻っていく。姿が見えなくなったあたりで、階段上からわっと子ども達の歓声が響いてくる。園の中でも一位二位を争う人気で、他クラスの子どもからも好かれるほどだ。素直に憧れてしまう。  自分もあんな風になりたい。  でも、とてもじゃないが、なれるとは思えない。  彼の姿を目にする度に、鈴音の胸はじくじくと痛んでしまう。 ※  教材倉庫。職員室とむらさき組の間に位置する縦長の区画を訪れる。  悪戯防止の鍵を外して引き戸を開けると、ぬるま湯のような空気が溢れ出す。掃除が行き届いていないせいか、悪臭一歩手前のキツい臭いが鼻腔(びくう)を刺激してくる。  倉庫の至る所に段ボールが積まれており、棚に入りきらない分は乱雑に転がっている。それぞれから折り紙や画用紙が飛び出しているが、幾つかはあまり使われていないのか、(ほこり)が溜まって層になっていた。  元々狭い空間なのだが、所狭しと教材が(ひし)めくせいで、余計窮屈(きゅうくつ)に感じる。誰も彼も日々の保育に忙しく、整理整頓をする時間的余裕がない。園児や保護者が訪れる場所ではないのをいいことに、長年手を抜き続けているのが伺える。微弱な地震が発生しただけで、いとも簡単に崩れてしまいそうだ。長居はしたくない。早いところ済ませよう。  鈴音は段ボールから目当ての物を引っ張り出す。  任せられたのは教材の準備だ。五月に行う活動の一環で、葉っぱ型に切り抜いた画用紙が大量に欲しいそうだ。千佳からの注文は、できるだけ多く切り抜いておくように、とのこと。目標数が不明確だ。果てしない虚しさに気が遠くなる。 「そういえば、ここって確か」  アレがある場所だ。  今一つやる気が出ないせいか、誘われるように奥へと進んでいく。  初めて教材倉庫に入った際、その異様な光景が印象に残っていた。アレは未だ置かれたままだろうか。  うず高く積み上げられた段ボールジャングルを慎重に抜けていく。途中、崩れそうな箇所を適当に整えながら、倉庫最奥部まで踏み込む。  果たしてそこには、変わらずあり続けていた。 「やっぱりあった」  それは神棚だった。  注連縄(しめなわ)神鏡(しんきょう)などの神具がない簡素な物なのだが、それ自体は特に不思議ではない。問題なのは、神棚が床の上に直置きされていることだ。  宮形(みやがた)と呼ばれる小さな神社が、打ち捨てられたように転がっている。  紛うことなき罰当たりな光景がそこにあった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加