第一章:邪教

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※  結局、閉園時間の午後七時まで、ギリギリいっぱい残業をしてしまった。もちろん、作業は終わっていない。仕事は持ち帰りだ。画用紙の束を自転車の(かご)に詰め込んで、起伏に富んだ帰路につく。  抱えた業務を投げ出して居酒屋に駆け込みたい気分だ。しかし、自転車とはいえ飲酒運転になる。それに鈴音は下戸(げこ)だ。普段はノンアルコール飲料で晩酌(ばんしゃく)している。もし下手にアルコールを摂取すれば、地元で迷子になって行方不明になるだろう。  なので、愚直に寄り道せず帰るしかない。  台地の上に建つ園を下って市街地へ、そこから我が家のある要目(かなめ)地区まで約二十分。往路も復路も台地から台地へ。ペダルを全力で踏み込み、急勾配の坂を制覇する。肉体労働の後にこの道程は拷問だ。足が棒切れと化している。なお、見た目は大根のままだ。  最後の力を振り絞り、よろめきふらつき、見慣れた我が家に辿り着く。  何を隠そう、実家住まいだ。俗に言う子ども部屋何某(なにがし)。時に嘲笑の対象となる、巣立たず居座る愚鈍な鳥である。  元々描いた将来設計では、遠方に就職して自由気ままな一人暮らしの予定だった。が、計画は捕らぬ(たぬき)の皮算用。どこもかしこもお祈りメールで大惨敗。救いの蜘蛛(くも)の糸でにじいろこども園に滑り込むも、同じ市内となれば実家通いが断然お得。不景気のご時世、低所得の生業(なりわい)も加味して当然の選択だった。  おかげで肩身の狭い毎日だ。近所の人に噂されるのではないか、後ろ指さされるのではないか。自意識過剰かもしれないが、レールを外れてしまった負い目を感じる。もっとおおらかに生きたい。 「あー、もう無理」  帰宅したら即座に着替える。高校生時代のジャージで身を包むと全力で脱力、ベッドに転がりスマートフォンをいじる。疲労で我が身の限界が間近のせいか、布団が底なし沼になった体感だ。ずぶずぶと沈んでいく。  だが、まだ眠ってはいけない。  メッセージアプリに通知が来ていた。唯一の友人からだ。日課の愚痴(ぐち)タイムをしよう、という旨の文章が十数分前に送られていた。  渡りに船だ。今日も言いたいことが山ほどある。富士山を超えてエベレストだ。多少睡眠時間を削ってでも吐き出したい。さもないと、明日以降の業務に支障が出るだろう。  何はともあれ、すぐさま電話をかける。 『お、今日も遅かったじゃ~ん』  底抜けに明るい声音がスピーカーを震わせる。彼女の名は根津(ねづ)(ゆい)。X県内で保育教諭として働いている。 『もしかしなくても、やっと仕事終わったかんじぃ?』 「一応ね。持ち帰りの残業がいっぱいだよ」 『なぁんだ、あーしもおんなじ。やんなきゃいけない書類がいっぱいでさ、ぶっちゃけ全然終わんないのよね』 「絶対勤務時間内に終わる仕事量じゃないもん。それに休憩時間だって殆どないし」 『ね、ホントマジそれ』  結が相手なら、自分を偽らずに本音を吐露できる。お互い気兼ねなく、愚痴をドバドバ垂れ流し合える。気の置けない仲というのは、まさにこういう関係を言うのだろう。  鈴音と結は正反対、性格の陰陽が対極に位置していた。  数年前、大学にて彼女と初めて会った時は、絶対相容れないと距離をとったほどだ。見た目はギャルそのもの。日焼けした肌に露出度高めの服を(まと)い、(おおよ)そ幼児教育の道を志す者の容姿ではなかった。  だが、意外にも気が合った。性格も見た目も真逆ではあるが、趣味嗜好の方向性だけは似た者同士だった。鈴音の場合は漫画とアニメとゲームのオタク、結の場合はビジュアル系バンドの追っかけファン。趣味を第一とした価値観が二人を繋げたのだ。  なお、結の推し活動は度を越しており、奨学金をライブ遠征で溶かし、現在進行形で給料が溶解中とのこと。返済の目途(めど)は立っていない。節制を覚えないと、そのうち破滅してしまうのでは、と行く末を案じてしまう。 「先輩に仕事押し付けられちゃってさ」 『それって、あの性格キツいってゆー人?』 「そうそう。部下相手ならまだしも、子どもにも高圧的でね。しかも、変な神様みたいな名前を出して脅すし」 『似たようなの、うちの園にもいるよー。不運なのは悪魔のせいだから~とかなんとか言って、同僚相手に怪しい宗教の勧誘してくるおばさん。まぁさすがに、子ども相手にはしないけどね』 「だよね。あとそれからね、その先輩だけじゃなくて、園全体もちょっと妙っていうか。ほら、前に言った変な習慣があるって話」 『椅子が一つ多いってのと、ヘンテコな印があるんだっけ?』 「あと、神棚の中に変な置物まであった。石で作られたこけしっぽくて、角みたいなのが生えたやつ」 『うわぁキモ』 「社会人始めてまだ一ヶ月だけど、既に行きたくない気持ちでいっぱいだよ」  社会の荒波に揉まれて心がぺっきり折れ、五月病を発症して復活しないままドロップアウト。なんて悲しい展開はよくある話らしい。スタートダッシュで盛大に転倒したようなものだ。医務室送りである。  鈴音の場合それに加え、職場環境の悪さもあってダブルパンチだ。カルト宗教、あるいは悪魔崇拝疑惑を胸に仕事をする新人なんて、他にいるだろうか。いや、いないはずだ。多分。 『でもさ、あともうちょいでゴールデンウィークじゃん? やっと休めそうっしょ』 「そうだといいけどね」 『まさかの休日出勤とか』 「じゃなかったとしても、教材準備とか書類作成とかでほぼほぼ飛びそう」 『世知辛過ぎー』 「可能な限り休みは長めに貰いたいよね」  せめて連休と呼べる長さは欲しい。 『あーしはライブツアー回るのに忙しいけど、鈴音はどうするよ?』 「積ん読漫画と今季アニメの消化、あとは新作ゲームが幾つか。大体その辺かな」
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