第一章:邪教

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 室内をざっと見回す。小学生の頃から使い続けている部屋だ。学習机をはじめ、当時の物がちらほら残っている。  その一角に、未読の漫画が山脈を築いていた。自由な時間が殆どなく、ゆっくり漫画を読む暇すらない。衝動的に買うだけ買って、バベルの塔よろしく崩れる時を待つだけだ。せめて大学生の間に片付けておくべきだった、と今更ながら後悔する。  アニメも全然視聴していない。今年の春は高品質なタイトルが多くて豊作らしいが、追っているのは一、二作品程度だ。動画一本分の約三十分すら捻出が難しく、疲れきった体では簡単に寝落ちしてしまう。  ゲームに至っては諦めの境地だ。やる気も起きない。コンシューマゲームはおろか、ソーシャルゲームすら手つかずだ。かつては睡眠時間を削ってでもプレイしていたはずなのに、今では眠る方が優先事項になっていた。  履歴書にある、特技を記述する項目。迷わず書けるのは集中力だった。正確に言えば、好きなことに対してだけという注釈付きなのだが、それでも唯一の取り柄だ。  それなのに、たった一か月弱で、趣味にすら集中できない体になってしまった。仕事に忙殺されて、数少ない長所すら摩耗(まもう)し、凡庸(ぼんよう)でつまらない人間と化した。いや、それは元からか。自嘲する気力もない。 『おーい、大丈夫か鈴音ー』 「ああ、うん。ちょっとね、睡魔が襲ってきたかも」  ぼーっとしていたらしい。慌てて言い訳する。やはり、集中力が欠如しているようだ。どうしようもない。  結局、その日の愚痴大会は早めにお開きとなった。  後に残ったのは力尽きた肉体と、終わらぬ持ち帰りの仕事だけ。布団の底なし沼に囚われて、起き上がるのが酷く億劫(おっくう)だった。 「一之瀬先生みたいに仕事がこなせたらなぁ」  ふと、脳裏に澄法の姿が浮かんだ。一つ上の先輩だが鈴音とは大違い。仕事をそつなくこなし、子ども達の人気を一身に受ける逸材中の逸材。それは天性の才能なのか、鍛え抜かれた努力の賜物(たまもの)なのか。あんな風になれたのなら、胸の奥で(うごめ)く不安も劣等感も吹き飛んで、何もかもが晴れやかになっているのだろうか。  一年後、彼のような保育教諭なれているとは、どうしても思えなかった。 ※  寝正月ならぬ寝ゴールデンウィークはあっという間に過ぎ去った。  オタク活動の進捗(しんちょく)(かんば)しくなく、日頃の疲れを癒すための爆睡週間に予定変更だ。大変不本意である。  鬱々(うつうつ)としたまま五月中旬。また慌ただしい日々が幕を開ける。  休日明け初日だが、社会的時差ボケ(ソーシャル・ジェットラグ)すらしている余裕はない。どこの保育室でも職員は右往左往、ドタバタ準備で大忙しだ。  明日はZ教育大学の学生達が見学にやってくる。保育士や幼稚園教諭の卵だ、杜撰(ずさん)な保育で幻想を壊しては大問題だ。ただでさえ人手不足なのに、余計に希望者が減ってしまう。そのため、保育室の掃除に掲示物の整理、当日の計画を念入りにチェックして予行演習。全身全霊で取り繕おうと必死の形相だ。ピリピリとしたムードを肌で感じる。  現状を知ってもらうためにも普段通りでいいのでは、という疑問が浮かぶも口には出せない。園や大学、果てには学校法人全体の沽券(こけん)に関わるのだろう。理屈では首を傾げるもやらざるを得ない。  まぁ、気持ちは分かるけど。  鈴音自身、疑問はあれど、良いところを見せたいという願望はあった。学生達を引率して訪れるのが、かつての恩師だからだ。最前線で奮闘する姿をアピールしたい。その気持ちに偽りはなかった。  鶴見(つるみ)司恩(しおん)。鈴音の所属していたゼミの教授だ。  その性格は豪快で男勝り。ついでに言うと大酒豪。毎週のように学生を飲み会に誘い、大盤振る舞いで飲み明かす。一方、繊細な絵を描く芸術家で、以前はそれなりに名も売れていたらしい。現在は子どもの絵に惚れて、幼児の発達と美術の関係性についての研究にご執心だ。因みに三十路だが未婚で、酔う度に嘆いていたのは忘れられない。  恥はかかせられないよね。  元教え子として八面六臂(はちめんろっぴ)の大活躍……は無理だとしても、失態だけは御免被る。学生達のお手本になるような保育をしないと。  だが、そうなると最大の障壁がある。無論、同僚の千佳だ。  五月になり、真矢子から千佳にバトンタッチ。すなわち、全ての主導権は彼女に移るのだ。四月の時点で強烈だったのにパワーアップで過剰戦力。意向に反する行動をすれば、容赦(ようしゃ)なく叱責が飛んでくるのは間違いない。  正直、心の底から嫌だけど。  高圧的な彼女の言いなりは気に食わない。子ども相手に命令口調もそうだし、“ぬゑらぜ”なる権威を振りかざすのも承服しかねる。だが、反論できる立場になく、意思表示する勇気も持ち合わせていない。少なくとも、学生見学の間は従うしかないだろう。  悶々(もんもん)とした気持ちはわだかまり、解消される間もなく日はまた昇る。 「久しぶりだね霧島君。といっても、一か月ちょっとぶりか」  出勤早々、司恩と廊下でばったり遭遇した。タイトスカートを着こなす、仕事ができる女性然とした堂々の立ち姿だ。緩く一つに結った髪や泣きぼくろがアクセントになっている。 「その、えっと。今日はよろしくお願いします」 「そんなにかしこまらなくていい。お邪魔してるのはこっちだからね。大勢で押しかけちゃったけど、迷惑だったらバンバン言ってくれていいぞ」  司恩はかっかと豪快に笑う。  気さくでフレンドリーなのは相変わらずだ。現在のゼミでも同じように学生と接しているのだろう。飲み会も頻繁に開催してそうだ。 「そういえば、今もイラストは描いているのかい?」  雑談にと、半ば黒歴史の話題が掘り起こされた。不意打ちに「うぐっ」と情けなく(うめ)いてしまう。  一時期、とあるゲームのキャラクターと自分自身を交流させる、夢漫画なる常軌を逸した劇物を生み出した時期があった。人類を滅ぼす大量破壊兵器と言い換えてもいい。思い出すだけで共感性羞恥(しゅうち)に震えてしまう、地底の奥底に封印しておきたい代物だ。もっとも、身から出た(さび)なので文句の言いようがない。甘んじて震え続けよう。  だが、性質(たち)の悪いことに、当時その制作現場を同級生に発見されてしまった。噂は尾ひれはひれをくっつけてキメラとなり、やがて司恩の耳に入った。結果、大学紹介のパンフレット制作に参加させられた。地域全土に出来の悪いイラストが行き渡るという、目を覆いたくなるような惨状が展開されたのだ。  忘れてほしかったのに。
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