11 高い壁

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11 高い壁

 キリエはその美しい笑顔を不憫(ふびん)に感じた。   これほどお美しく、何もかもを手にしていらっしゃる完璧な女神、だが実は、何一つ自分の思う通りにはならぬ不自由なお立場、それをあらためて認識した。 「明日には床上げをします」  マユリアは微笑んだままそうキリエに言った。 「決してご無理はなさいませんように」 「いえ、本当は今日もどうしようかと考えていたところだったのです」     マユリアはそう言うと、さらに体を起こしてベッドから足を降ろして座る体勢を取った。キリエが急いで体を支える。  編んだ髪が左の肩から胸にゆるやかに流れ落ちる。その髪型のせいか、いつもよりやや幼いようにお見受けする。このお方は思えば八年前の二十歳の時、いや、それよりもっと前から今のように落ち着かれた印象であられたとキリエは思い出していた。まだシャンタルでいらっしゃった頃から、人にはあらぬように輝き、艶めいていらっしゃったと。 「はあ、スッキリいたしました。もう寝てばかりいるのにも飽きてきたもので」  キリエは晴れ晴れとしたその言葉にハッと現実に戻り、急いで答える。 「ええ、本当に。いつも忙しく動いていると、じっと寝ているのはなんだか悪いことをしているように思えるものです」 「そういえば、おまえも少し前にはそんな生活をしていましたね」  そう、キリエはセルマの策略で体調を崩し、しばらく寝付いていた。 「今は、もうなんともないのですか?」 「はい、おかげさまで、それなりに元気になっております」 「それなりですか」 「この年ですから、完全に元気という日はございません。今はこうして、生きて動いていられるだけでも天のご加護かと」 「まあ」  キリエの答えを聞いてマユリアが(ほが)らかに笑う。 「おまえはいつから、そのように楽しい答え方をするようになったのです」 「楽しい、ですか」  言われてキリエが目を丸くし、その様子にまたマユリアが朗らかに笑う。 「ええ、以前から優しく温かい侍女頭でしたが、最近はなんでしょう、人間らしくなったと言うのかしら」 「さようでございますか」 「ええ、さようでございますよ?」  マユリアはそう言ってから、自分が言ったことが楽しくてたまらないという風に、クスクスと笑い出した。 「マユリアこそ、なんだかいつか誰かが口にしたことのようなおっしゃり方で」 「まあ」  またうれしそうに笑う。このご様子ではもうすっかり良くなられたのだろう。キリエはホッとしていた。 「神官長が面会を求めてきています」  マユリアが真顔に戻ってそう言った。 「体調が悪く、今日で4回面会を断りましたが、明日は会わないといけないでしょうね」 「お嫌でしたら、もう少しご病気でいらしたらどうでしょうか」 「ほら、また誰かのように」  マユリアがまたクスクスと笑った。 「でも、そうもいかないでしょうね。大丈夫です。もう元気になりましたし、きちんと自分で対応できますから」  そうはっきりと言うマユリアの目には強い光が宿っていた。 「それよりも、わたくしのせいでおまえのことが途中になってしまっていて、それが気にかかります」 「いえ……」 「良い日を見て、またもう一度お願いしますね」 「はい」  キリエはマユリアとの話を終えて部屋を出た。  お元気になられているようで、その点にだけは安心できた。  今回のこと、寝付かれるほどに影響を受けられたのは、あのことであるとの確信を持てた。だが、それ以前のこと、八年前から始まったとおっしゃった、短い時間だが気を失うという症状。それは穢れの影響なのだろうか。だとしたら、この八年でどれほどの穢れをお受けになり、どのぐらいご健康に影響を与えているものなのか。それがやはり気にかかる。  こうなった今は、一日も早く、マユリアの任から自由にして差し上げることだ。そうすればきっと、人にお戻りになり、お(すこ)やかになられ、元気なお体で、ご要望の通りにご両親の元へお返しできる。そうしてさしあげなければならない。それだけがマユリアにお返しできるただ一つのご恩返し。  だが、そのためには交代を無事に終わらせる必要がある。それが、今の状況ではとてつもなくむずかしい。まるで高い壁を乗り越えるように。  交代の日、その日はキリエにとっても運命の日だ。その日でキリエは侍女頭としての自分の役目を終える。だが、これもまた今の状況ではとてつもなくむずかしいのだ。  まだ神官長はセルマを侍女頭にすることを諦めていない。そのために何をやってくるかが分からない。例の元王宮衛士が神官長の命で動いていたことを認めてさえくれれば、それを理由に神官長を拘束し、無事に交代だけは終わらせることができるはずだ。  交代の日はまだ決められていない。神官長は自分の思う通りに進まない間は交代の日を発表しないつもりだろうか。普通は一月前後(ひとつきぜんご)と慣習として定められているが、決してそうしなければいけないと決まりがあるものではない。封鎖の時ですら、予告もなく突然鐘を鳴らしたのだ、交代の日までの日数を、勝手に伸ばすことすらやってのけるだろう。  それだけ神官長も今回の交代の日に賭けている。全てを投げ打ってでも、望みを叶えるつもりだ。
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