9 穢れの影響

1/1
前へ
/21ページ
次へ

 9 穢れの影響

 キリエはマユリアの私室へと足を運んだ。 「お具合はいかがでしょうか」 「ああ、キリエ」  マユリアはベッドの上に上体を起こそうとするので、キリエがそれを留める。 「そのままでいらっしゃってください。無理はなさいませんように」 「いえ、もうかなりいいのです。少し起きた方が調子もいいように思います」 「さようでいらっしゃいますか」  キリエは主に手を貸して、上体を少しでも楽にできるようにと、ソファーからもう一つクッションを持ってきてあてがった。  マユリアはいつもは梳き流すかシニヨンに結っている髪を、三つ編みにして左の肩から垂らしていた。その豊かな自分の髪すら重そうに見える。 「ありがとう」 「いえ」    マユリアはふうっと楽そうに息を吐き、 「忙しい時に迷惑をかけますね」  と、侍女頭に謝罪の言葉を口にする。 「もったいないことを」  キリエは丁寧に頭を下げてから上げると、 「少し、お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」  と、時間を取らせることに許可を求めた。 「ええ、構いませんよ。ではここに椅子をお持ちなさい」  病の床にある(あるじ)が、老いた侍女頭に心を(くば)る。 「はい、失礼をいたします」  キリエはテーブルのところにある椅子を一つ持ち、マユリアのベッドの横に置いて、そこに腰を降ろした。 「一体何の話でしょう、何か問題でも起きましたか?」 「いえ、伺いたいのはマユリアのお具合のことでございます」  キリエは痩せた手を主の手に添え、心配そうな表情で続ける。 「一体、いつからどうお具合が悪かったのでございましょうか。今回のことが初めてではございませんでしょう」  マユリアは少し考えていたが、この侍女頭にごまかしは通じないと、 「ええ」  と、言葉少なに認める。 「一体いつから、どのようにおなりでした」 「以前から時々あったのですが、今回のようなことは初めてです」 「以前から」  キリエはやはり、と小さく嘆息(たんそく)する。 「いつからでございましょう」 「おそらく、八年前から」  そんな前から。 「どうして何もおっしゃってくださらなかったのです……」 「いえ、ずっと大したことはなかったのです」 「どのようなご症状がおありだったのですか」 「少しめまいがする、ぐらいのことでした」 「どうか、これまでにおありだったことを、全部お話しください」  キリエにそう言われ、マユリアは思い出すようにしてぽつりぽつりと話す。 「覚えているのは、そうですね、一番最初は先代がこの宮を去られて間もなくだったと思います。わたくしが応接で一人、考え事をしていたら、ふっと気が遠くなりました。そして、少しの間意識を失っていたように思います」 「そんなことが……」  キリエは息を呑んだ。 「意識を失うなど、大変なことではございませんか、どうしておっしゃってくださらなかったのです」 「本当に短い間のこと、おそらく一瞬に近い時間のことだったからです。多分、気が抜けて、それでふっとそんなことになったのだろう、その時はそう思っておりました」 「それが初めてということは、それからもあったのですね」 「ええ、何回か。でも、どれもほんとうに短い間で、すぐに治りました。ですから、言うほどのことはない、そう思っていたのです」 「言っていただきたかったです」  キリエは握った主の手に力をこめる。 「ごめんなさい。ですが、十年を超えての任期、そのぐらいのことがあったとしてもおかしくはない、そう思っていたのです」  なんとお(いたわ)しいと、キリエは胸が苦しくなる。  この美しい主は、ご自分が全ての(けが)れをその身に受ける覚悟で2回目の任期をお受けになられたのだ。それだけの覚悟をなさって先代をお見送りになり、お帰りを待たれていたのだ。  キリエは思わず先日のミーヤの身に起こったこと、先代がミーヤのことを守ってくれたことを話したくなる。だが、まだ言ってはいけないのだと、鉄の自制心を持って己を留めた。 「マユリアのお気持ちはよく分かりました。ですが、やはり私にだけは言っていただきたかった」 「ごめんなさい」 「いえ、お気持ちはよく分かりましたので」  キリエは主の手を握ったまま、ゆっくりと首を左右に振った。  その様子は、主を見守る下僕(しもべ)のそれではなく、大切な孫を見守る祖母の目、そのものであった。  マユリアはその目を見ながら、キリエという人間は、このような目を、表情をする人間であっただろうかと考える。  マユリアが物心ついた頃にはすでに侍女頭だったキリエ。その厳しい生き様から、皆はキリエを「鋼鉄の侍女頭」などと呼ぶが、マユリアの目には、いつも優しく、暖かく、懐深い人物と映っていた。映るだけではなく、実際にいつもそうして守ってくれていた。  だが、その時とはまた違う目をしているとマユリアは思った。  これまでのキリエは人として、侍女として、そして侍女頭として自分たち主を、そして侍女たちを大切にして守る存在であった。だが今はもう一歩踏み込み、その守る対象を愛しい、かわいい、そう思っているようだった。 「誰がおまえを変えたのでしょうね」 「え?」  キリエは主の言葉の意味を測りかね、戸惑った顔になった。
/21ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加