残暑の彼女

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「あぁ、やっと」  彼女の声に目を開く。目の前にいる、カナが。  あの人に、重なる。 「やっと、解放される」  カナが呟き、微笑んでいる。優越に浸るような顔だ。  苦しんでいない、泣いていない。  何故。  ミンミンミンミン、ジワジワジワジワ。  (せみ)の音が、鳴り止まない。  どろり、俺の口から何かが溢れた。ばたばたと彼女の服に落ちる。  赤い。綺麗な朱色だ。  なぜだろう。これだけは蝉の音で分かる。  俺はまた。殺し損ねた。  がふ、と咳をする。手から包丁が溢れ、足元から崩れ落ちた。  カナが見下すキッチンで、力なく横たわる。視界が失血で白く染まってゆく。  ミンミンミンミン、ジワジワジワジワ。  ミンミンミンミン、ジワジワジワジワ。  それ以外の音は聞こえない。残暑が俺を取り囲む。  カナが、俺を見ている。  彼女は俺の腹に刺さっている刃を、ゆっくり回した。  潰れたカエルのような声が、俺の喉から響いた。 「ゆーくん、ありがとう」  カナはにっこり微笑み、顔を近づけてくる。 「私ね、もう耐えられなかった。蝉の声がね、ずっとミンミンミンミン鳴っててね。うるさくて、気が狂いそうで」  血色の手で、こちらの頰を包むように触れてくる。 「ゆーくん、優しいから私だけのものにしたかった。でも殺す勇気なんてなくて。そしたら『センセイ』が『指導』してくれてね。……その日からずっと、蝉の声が止まなかった」  優しげな声だった。彼女は俺を可愛がるように撫で回し、 「殺したくない気持ちもあったの。でもね、もう耐えられない。ごめんね、ここ数年の私乱暴だったよね。あんまりにも鳴き止まないものだから(つら)くって」  そっと口づけされる。彼女は唇に付いた血を舐め取って、 「……大好きだよ。ゆーくんのこと、ちゃんと『報告』してあげるから」  ぎゅっと握った手に頰をすり寄せてくるカナ。  恍惚に浸るように目を伏せて、 「あぁ、これでやっと。――――静かに過ごせる」  カナの微笑みと共に、蝉の音がぶつりと途切れた。  あぁそうか。  カナも、残暑に残された身だったのか。俺よりも、ずっと前に。  窓の外、雪が一層強く降り注いでいる。カラスが虚しく鳴いている。  俺たちの夏が、残暑が。  今日、ようやく終わるのだ。  目をつむると。残暑の彼女が、悪魔のように微笑んでいる。  真っ白な服装で、真っ黒な瞳を細めて、にっこりと。
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