2ー⑺

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「なんだ亜蘭じゃないか。ポオを外で遊ばせてたのか?」 「そうなんだけど、どうもポオがこの方のおかずを食べてしまったらしくて……」 「ははあ、そういうことか。いくら泥棒でも猫を逮捕するわけにはいかないな。亜蘭、盗まれた方によくお詫びして、魚の代金を弁償してあげなさい」 「さきほどからそう言ってるんですが、どうにも気持ちが収まらないらしくて」 「いや、俺だって何も猫ごときに本気で腹を立てているわけじゃあ……」  男がばつが悪そうに言葉を濁した、その時だった。 「おう、お前うちの近所の大工じゃねえか。何をいきり立っているんでえ」 「えっ」  突然、凄みのある声が通りに響き、流介ははっとして声のした方を見た。 「梁川様……」  通りの真ん中で足を止め、男を睨めつけていたのは隈吉だった。 「雨が続いて仕事がねえんだろうが、弱い物に当たるってなあ頂けねえな。猫だって泥棒稼業でどうにか生きてんだ。大目に見てやんな」 「は、はあ、面目ありません」  男が頭を下げると、隈吉は「女房には仕事があるようなことを言って出てきたんだろうが、仕事もねえのに外でわざわざ弁当を食うこたあねえだろう。やりすぎってもんだ」と言った。 「まったくもってその通りで。実は元町のでかい塔の金が入りませんで、暮らしにゆとりがなくてつい猫に当たっちまいました」 「元町の塔?……ああ、エノさんが言ってた奴だな。たしか設計した多近ってのが死んじまったんだったな」  流介はどきりとした。この男、大工だったのか。しかもあの塔を建てた大工の一人とは。 「そうだったんですか、そいつはお気の毒で。……いえね、なんでもその多近って旦那の話によると、あの塔はまだ未完成であそこから先がまだあるんだそうで」 「そりゃあ理由にならねえな。未完成だろうが何だろうが、最初の約束が終わった時点で金は払うもんだ」 「あたしもそう言ったんですがね。てっぺんに望遠鏡をつけるだのなんだのとごねられまして、半分しか貰えてないと、こういうわけです」  なんと、あの上にさらに望遠鏡を覗く場所をとりつけるつもりだったのか。 「なんでもその望遠鏡が普通の奴じゃなく星を見るためのもんで、えらく高いんだそうです。あっしなら星なんぞ観なくても、普通の望遠鏡で満足ですがね」 「まあエノさんも塔の一番上から星空を見るのを楽しみにしてたからな。よし、俺からも早く代金を払うよう雇い主……谷地の旦那だったかな、に言っておくよ」 「そうしていただけるとありがたいです。……さすがは元、侠客の大親分だ」 「よしな、昔の話だ。これからの世はあの、死んじまった多近みたいな奴が活躍するのさ」  隈吉はそういうと、亜蘭の抱いている黒猫をひと撫でし「あばよ」と言ってその場を立ち去った。 「……梁川様に免じて魚泥棒の件は大目に見てやるよ。せいぜい、可愛がってやってくれ」  大工は戸惑ったような顔つきのままそう言うと、身を翻し通りの向こうに去って行った。
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