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「ひょっとしたら休憩時間に戻って来るかと思いましたが、とうとう最後まであらわれませんでした。でも後から考えると、その時彼は何者かに襲われそれどころではなかったのだと思います」 「おそらくそうでしょうね。元町教会とあの塔はさほど離れていませんが、休憩時間に見に言ったりはしなかったのですか?」 「……行きました。でも彼はいなかったんです」 「いなかった?」 「塔の一階までは入ったのですが、アーク灯も点灯しておらずエレベートルも一階で止まったままだったのです。もしかして上にいるのではないかと思い、上に向かって叫んでみましたが応答がなかったので、仕方なく引き返しました」 「ふうむ……では凶行はその後に起きたのかな」 「それはわかりません。でもあの時よく調べておくべきだったとは思います。あの時教会に戻らず、その場に留まって彼を探していればこんなことにはならなかった……そんな気がするのです」  春花の口調には悔しさがにじんでおり、芝居をしているようには見えなかった。流介は「わかりました。色々と話しづらいことを聞いてしまって申し訳ありません。では、僕はこの辺で」  流介は一礼すると、春花の家を辞した。少しでも疑問の糸がほどければと思い始めた取材だったが、かえって謎が増え思考が絡まるばかりだった。  ――あとは俵藤氏だが、果たして口を開いてくれるかどうか……  流介はひとつため息をつくと、考えをまとめるため会社への帰途を辿り始めた。                  ※ 「なるほど、ずいぶんと丁寧に取材しているようだが、その巡査殿の言うように警察の仕事でもある以上、出過ぎたことは慎むよう気をつけた方がいいな、飛田君」 「わかっています。あとは俵藤氏と沙織さんから話を聞ければ、よしとします」 「うむ、慎重に頼むよ」  升三にやんわりと釘を刺された流介は、ふうとひとつため息をつくと机に乗せた鞄から購入したヴェルヌの原書本を引っ張り出した。  ――さて、どちらから聞き込みに行こうか。  流介があれこれ思いを巡らせつつ読めるはずもない本をぱらりとめくった、その時だった。 「やあ、そいつはヴェルヌの原書ではありませんか」  突然、耳元でよく通る声が響き、流介は顔を声のした方に捻じ曲げた。 「天馬君か。あいにくとこいつは貸すわけにはいかないよ」 「そんな貴重な物を貸せなんて、無茶なお願いはしませんよ。……しかし飛田さんが空想小説を英語で読む趣味があるとは知りませんでした」 「いや、これはある人に頼まれて末広町の古本屋で買ったんだ」 「へえ。実は僕もこれから末広町の古本屋に行くところなんです。安奈の友人がそこの娘さんなので、先に行っている安奈と店で合流するのです」 「安奈君の?……ひょっとしてそこは『言之葉堂』というのでは?」 「その通りです。さすがは奇譚の専門家、素晴らしい推理です」 「よしてくれ、名探偵に推理を褒められるのはなんだかくすぐったい」 「どうです、飛田さんも一緒に行きませんか。なんだかお顔も曇っておられるようですし、本の並んでいる棚を見ているだけでも気が紛れるものですよ」 「そりゃあ君はそうかもしれないが……まあいいか、どうせぼちぼち次の取材に行かなくちゃならないんだ。……一緒に行くよ」  流介は原書を鞄に戻すと、よっこらせと椅子から腰を上げた。
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