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3ー⑴
「……なるほど、それは込み入った事件ですね」
末広町に向かう道すがら、流介は問われるまま転落事件の顛末を語った。
「刺し傷がある以上、単なる転落事故とも言いきれないし……」
流介たちがこれといって実りのないやり取りを交わしていると、前方に見覚えのある建物が姿を見せ始めた。
「あそこだよ天馬君」
「知っています。何度か来ていて、店の主とは顔見知りですから」
「あ、そうなんだ……」
店の前まで来ると、天馬は流介をすっと追い越し「こんにちわあ」と叫びながらガラス戸を開けた。後に続いて入った流介は、目を丸くしている絢と安奈を見て奇妙な気持ちになった。薄暗くかび臭い古書店に、美少女二人と美青年一人。何とも異様な取り合わせである。
「あら天馬。……それに飛田さんまで。陸の上でも何かしら引っ張ってくるのね、あなた」
「おいおい、それは飛田さんに失礼だろう。……おっと、絢さん、お久しぶり」
「あ……天馬様」
絢は天馬を見るなり顔を赤くしてその場に固まった。流介は絢に歩み寄ると「絢君、天馬君には安奈という許嫁がいるんだよ」と囁いた。
「もちろん存じてますわ。飛田さんだって、安奈と天馬様を見たらぽおっとなるでしょ?」
「そ、そうかなあ……」
流介は珍妙な自説を口にする絢に、曖昧な返しで応じた。
「――店主、何か面白い本は入りましたか?」
「ここ数日はなしだね。またそこの通りを船員やお雇い外国人が歩きまわるようになれば、いくらかは入ってくるかもしれんがね」
「ううん、そいつは残念だなあ。ポオかヴェルヌの原書でもあればと思っていたのだけれど」
天馬が露骨にがっかりした表情を作ってみせた瞬間、安奈が「天馬、原書を読む暇があるのなら、『匣の館』の良い改装案でも出していただけないかしら」と言った。
「改装するのかい、安奈。……そうだなあ、とにかく中を見ながらじゃないと、ひらめきがやってこないよ」
「それじゃ、これからお店に行きましょ。今日は幸い『港町奇譚倶楽部』の例会もないことだし」
「そうだな、行くとしようか。……飛田さん、どうやらめぼしい本は無いようなので、僕と安奈はこれで失礼することにします」
「あ、ああ……」
天馬と安奈が店を出て行くと、しばらく沈黙していた絢が突然「飛田さん、せっかくだからお茶でも飲んでいきません?一度、飛田さんとゆっくりお話がしてみたかったんです」と言った。
「えっ……どうしたんだい、急に」
「飛田さんがうちの店にいらっしゃるなんてそうそうないことだし、ここでたくさんお話しておかないと薬屋の方にいる人たちに回数で負けてしまいますわ」
「いや、回数って……とにかくお茶はまた今度にしよう。……それじゃ」
「あっ、飛田さん!」
流介は絢にごまかし笑いを見せると、寅三に「店主、また来ます」と言って古本屋を飛びだした。
――ええと、沙織さんの家は入船町で、俵藤氏の家は弁天町か……さて、どちらを訪ねようかな。
流介が行き先を決めかね、八幡坂の手前でうろうろしていると「やあ飛田君、また奇譚探しかね」といきなり太い声が耳に飛び込んできた。
「……住職」
流介に声をかけたのは実行寺の住職、日笠だった。
「なんだか疲れた顔をしておるな。昼はもう、食べたのか?」
「いえ、まだですが……」
「これから『梁泉』で蕎麦を食べようと思っているのだが、飛田君も一緒にどうかね」
「はあ」
流介は日笠の誘いに曖昧に頷くと、成り行きに任せるように谷地頭の方へと身体の向きを変えた。
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