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 碧血碑からさほど遠くないところにある匣館八幡宮は開けた景色が心を和ませる、山裾の人たちの憩いの場だった。  碧血碑から見えそうだという塔は、見ていた方角からするとハリストス正教会とカトリック元町教会の方だと思われる。つまりこの匣館八幡宮は碧血碑よりもっと「塔」とやらに近いことになる。  流介は境内の中をぶらぶら進んで行くと、隈吉と獲本が見つめていた方角に向けて目を凝らした。  ――駄目か、やっぱり木が邪魔して何も見えない……おや?  本殿から社務所へと移動しかけた流介は後ろの木立の上に尖塔のような物の一部がひょいと出ているのを目に留め、思わず声を上げた。  ――あれが梁川様が言っていた「塔」か?しかしなんだかよくわからないな。  森の上にわずかに覗く「塔」は、六角形か八角形かとにかくそういう形のように見えた。   木造か煉瓦かは不明だが窓らしきものがかなり大きく取られているようにも見える。森のてっぺんより高いのだからゆうに三十尺くらいはあるだろう。あんな巨大な物をふもとの人たちの目から逃れるようにこしらえているのは一体、何者なんだ?  境内の中をあちこち回り、それ以上よく見える場所がないと気づいた流介が石段の方に引き返そうとしたその時だった。 「参拝せずにお帰りですか?」  突然、呼びかけられ足を止めて振り返ると、髪をマーガレットに結った若い女性が箒を手にこちらを向いているのが見えた。 「あ、すみません。見られてるとは思いませんで……実はちょっと確かめたいことがあって境内に来たんです」 「確かめたい事?」 「はい。ここから元町教会の方向に変わった物が見えると思ったので」 「変わったもの……差し支えなければ教えていただけます?」 「塔ですよ」 「塔?」 「ほら、あそこにとんがった物が見えてるでしょう?あれですよ」  流介に促され木立の方に目をやった女性は、「ああ、あれ……」と今気づいたというように頷いた。 「知ってます?あれが何だか」 「いえ、しょっちゅうお掃除に来てますけど、今初めて気がつきました。 「掃除に来てる?神社の方ではないんですか?」 「うふふ、祖父が神職ですけど私は違いますわ。普段は末広町で父がやっている古本屋を手伝っています」 「なるほど、そうだったんですか。ぼくは飛田流介と言います。『匣館新聞』で記者をしています」 「私は乙葉絢(おとばあや)といいます。珍しい本も扱っていますので、お仕事で古い本が必要になった時はぜひいらしてください」  絢と名乗る女性はそう言って淡い笑みを寄越した。安奈や亜蘭と同じくらいだろうか。 「さて、もうこれ以上「塔」がよく見える場所はなさそうだし、参拝して帰るとするか」  流介が自分に言い聞かせるように呟くと、絢が「あのあたりなら、案内できるかもしれなせん」と言った。 「案内だって?」 「はい。子供の頃、あの辺でよく遊んでいたので。太い道が無くても多分、「塔」のすぐ近くまで潜りこめるんじゃないかと思います」 「まさかこれから行こうってんじゃないだろうね」 「今よりもう少し後の夕方がいいんじゃないでしょうか。四時にチャチャ上りの上の方でどうですか」 「あ……うん、まあ」 「じゃあ、私はいったん、父のところに戻りますね。後ほどまた、お会いしましょう」  絢と名乗る女性はそう言うと、箒を持って社務所の方へと引き返していった。 「やれやれ、おかしな成り行きになったなあ」  流介は頭を掻くと、参拝をするため本殿の方に足を向けた。
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