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 きりきりと麻縄が巻かれる音がして人力車ほどの大きさの籠が上ってゆくと、絢は「わあ、本当に上がっているわ」と声を弾ませて足元を見た。 「いや、これはなかなか……」  地面から五階の高さまで持ち上げられるという出来事は、木登りですら尻込みする流介にとって天狗か竜に連れ去られるに等しい異変だった。 「いかがですか、地上から天空まであっという間の旅は」 「とっても気持ちが良かったですわ」  絢が自分とは正反対の感想を口にするのを、流介は苦笑いを浮かべつつ聞き流した。 「いささか狭いですがこの展望室、下を見れば海峡、上を見れば星空というまさに夢の天守閣なのです」  顕三郎の言葉につられるように窓から外を見た流介は、その見事な眺めに思わず「おお、部屋の中からこのような風景を望めるとは」と感動のため息を漏らした。  かすかに船が見える海峡の美しさと、青紫の夜空にぽっかりと浮かんだ月の組み合わせはさながら異国の城に招待されたかのような美しさだった。 「どうですかこの海の美しさ、そして月の美しさは。そろそろ金星も見え始める時刻です」 「こんな高さから月や金星を眺めていると、すぐにでも行けそうな気になりますね」 「ははあ、ジューヌ・ヴェルヌの『地球から月へ』ですね。たしかに砲弾に乗って地球を飛びだせば月くらいは行けるような気がしますね。私はこうやって星空を眺めていると、火星やその表面に掘られた運河すら見えるような気がしてくるんですよ」 「えっ、火星に運河があるんですか?」 「ええ、外国の天文学者がそう言っているそうです。何とも夢のある話ではありませんか」   顕三郎は見えるか見えないかの赤い点に目を向けると、うっとりした表情で言った。 「これから少しづつ闇が払われ、犯罪も減るでしょう。街のあちこちで電灯がともり、夜道も明るくなるはずです。十階、二十階の建物もできてエレベートルで上り下りができるようになる……でもこの小さな塔から見える海峡と星空を私は一生、忘れないでしょう。……さて、帰り道が真っ暗になる前に下に降りるとしましょうか」  顕三郎はそう言うと、展望室の真ん中で固定されている籠に目をやった。流介と絢が促されるまま乗り込むと、「では、動かしますよ」という声と共に籠がゆっくりと動き始めた。  流介たちを乗せた籠はあっという間に一階の床に着地し、流介は遥か上の顕三郎に向かって「楽しいひとときをありがとうございました。ごきげんよう!」と叫んだ。  塔を出た流介の足が止まったのは、綺麗に草を刈った空地から雑草の繁る踏みつけ道に戻りかけた時だった。目の前の草木がちかちかと灯りのような物に照らされるのが見えたのだ。 「おおい、記者さんたち。ちょっと後ろを見てみませんか」  背後からの声に思わず振り返った流介は、思わず「おおっ」と声を上げていた。塔に取りつけられた無数のアーク灯が点灯し、不具合なのかわざとなのか暗号のように瞬いていたのだ。 「綺麗……七夕の行灯よりはるかにまぶしい光ですわね」 「でも見慣れないせいか、ずっと見ていると何だかおかしな気分になってくるな。行こう」  流介は光る塔をうっとりと見つめる絢を促すと、月明りだけの暗い道へと向かっていった。
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