1、死に場所を求めて

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1、死に場所を求めて

 自分が死にさえすれば、全てが終わる。この理不尽な運命も、胸を引き裂くような苦痛も、暗く沈みゆく胸の内でさえも。  羽澄俊(ハスミ ジュン)はジッと、手元に視線を落としていた。  今は船に揺られて大海原を行く最中で、頃合いは夕暮れ時。船窓の方へ目を向ければ、地平線に真っ赤な太陽が沈みゆくのが見えたろう。視界を埋め尽くす水面が朱に染まる様は、まさに風光明媚と評するに相応しい絶景だった。  しかし羽澄は一瞥(いちべつ)もくれない。ただひたすら、独り言の中に埋没するばかりだ。 「これで良かったんだ。オレは間違ってない。あの選択は正しかった……」  船は比較的大きく、同席者も何十人と居る。座席数に余裕は無く、皆は必然的に身を寄せ合って座るのだが、羽澄の両脇だけ不自然に空いていた。薄気味悪さがそうさせるのだ。無言だが露骨なまでに、羽澄は除け者扱いを受けた。  かと言って、同席者達も和気あいあいとする訳ではない。その多くが沈痛な面持ちで、中にはすすり泣きすら晒しつつ、我が身の運命を呪うのだ。 「行きたくない。絶対に嫌、お家に帰りたい……」 「パパ、ママ、どうしてなの。何で私を売り飛ばしたの……!」  涙は止め処無く溢れていく。しかし、いかに泣こうとも、船足は快速だった。本土ならば既に水平線の向こうへ消えた。その事実が更に涙を誘うのだ。  辺りは徹頭徹尾、重苦しい空気に包まれている。そんな最中、船室の出入り口から野太い声があがった。口調はいくらか柔らかいものの、響きには威厳が感じられた。 「もうすぐ島に到着する。今のうちに降りる準備をしておくように」  そう告げるのは中年男性だった。上等なスーツを着用しており、所作も丁寧だ。  一方で、羽澄に同席する者達は全員が若い。10代の未成年ばかりで、身なりもTシャツにデニムといった、ラフな姿ばかりだった。その為、中年男の存在はやたら目立ち、異物とさえ思えた。  やがて船の様子が変わる。エンジン音が低くなり、速度もみるみる落ちていく。進路に合わせて身体が揺さぶられると、船内のあちこちから押し殺したような悲鳴があがる。  船が静止する事で、遂に到着してしまったと知る。太平洋上にひっそりと浮かぶ人工島。一部では『牢獄島』と噂される絶海の孤島に。 「ここでしばらく待機。タラップの用意が終わるまで」  船着き場はコンクリート製で、まだ新しい。少なくとも、目に見える部分に年月の劣化は出ていなかった。 「船から降りたら、次はバスに乗る。適宜、所員の誘導に従うように」  同席者達は、反応を鈍くしつつも、結局は従った。  それは羽澄も同じで、船内に出来た列に並んでは、タラップを降りる。  足が久しぶりの陸を踏んだ。するとその時、微かな揺れを感じた。続けて、視界までもが異常をきたす。 「えっ、何だこれ!?」  突然、視界は色彩を失くした。朱に染まる空も、島内に茂る樹木も、付近の人間でさえも。それら全てが白黒一色、モノクロームに塗り替えられてしまった。  更に言えば、あらゆる物が静止している。人も船も、寄せては返す波さえも、それら全てが動きを止めてしまった。さながら水墨画やら、モノクロ写真にでも入り込んだようである。  羽澄は当然ながら狼狽える。彼の理解を遥かに越えた怪現象であり、そもそも脈絡もなく発生したのだから。 「こんな事、有り得ないだろ……!」  羽澄は思わず両目をこすった。再び目を開いてみれば、あらゆる物が元通り。夕焼けは朱、木々で色づく紅葉は風にそよぎ、周囲の人々も歩みを止めない。  見間違い、あるいは船旅の疲れか。羽澄は立ち止まって思考するも、答えなど持ち合わせていない。そして名前を呼ばれたので、考察も中断させられた。  呼び声をあげたのはバスの運転手だった。彼は不機嫌という事もなく、乗り込んだ羽澄へ気さくに話しかけた。 「どうした。変な所でボンヤリしてたね。何か気になる事でも?」 「いえ、別に」 「大自然に見惚れたとか、そんな感じかな。悪くない景色だろ。いずれ気に入ってくれると思うよ」  羽澄は曖昧に返事をし、手近な空席に座るだけだった。  停車するマイクロバスは2両。補助席を総動員にしてまで乗客を乗せると、間もなく出発した。  長い坂を登り、森の道を走る。概ねがアスファルトで舗装されており、大した揺れは無かった。やがて分かれ道を迎えると、バスもそれぞれ別の方へ曲がった。  羽澄を載せたバスは左折。その後、大きな建物の傍で停車した。 「これから中央棟へ行く。所長も来られるから、決して失礼の無いように」  1人ずつバスを降りるのだが、彼らの多くは驚愕を隠せなかった。施設の外観が、想定したものと余りにもかけ離れていたからだ。  逃亡を阻止する塀や有刺鉄線は無く、内外を隔てる厳(いかめ)しい門も見当たらない。目に映る窓も大半が開かれており、出入り口もガラス製の自動ドアだ。鉄格子なんてものは、1つとして無かった。  そして敷地の随所で、花壇やベンチが見られる。開放感と華やかさが、来訪者を歓迎するかのようだった。 「今日からここで暮らすのか? 牢獄島って聞いてたけど」 「少年院とか、刑務所とか、そんな場所じゃ無かったのか?」  一同はその場で呆けてしまう。それでも引率者は足を止めない。少年たちは慌てて後を追いかけ、観光ホテルにも似た施設に入り込んだ。  自動ドアを過ぎれば、まず赤絨毯が長旅の疲れを労う。ロビーらしきスペースの窓は大きく、裏庭の花壇や湖が一望できる。そこでは、大きなソファに腰掛けつつ、弾けたように笑う男女の姿。全員が同じ服装である事を除けば、極ありふれた平穏な光景だった。  一同は、困惑と期待を味わいつつ、館内を行く。そうして辿り着いたのは建物の一室だ。飾り気はなく、パイプ椅子やテーブルの並ぶ様は、会議室を彷彿とさせる。  そこで耳にした『歓迎の言葉』も、やはり想定外の内容だった。 「ようこそ、遠路はるばるお越しくださいました。私はこの都立『共成所』の所長を務めております、浦兼(ウラカネ)と申します。君たちがここで『共成者』として、自由に楽しく、豊かな時を過ごしていただけたら幸いです」  所長と名乗った浦兼は、痩せこけた老人だった。糊の効いたワイシャツにスラックスという服装で、清潔感があった。姿勢も良く、背筋が真っ直ぐであるものの、袖の余り方だけが寂し気だ。  一見して好々爺。場所が違えば、縁側で微笑む年寄りのようである。そんな風格が、彼の浮かべる笑みに説得力をもたらしていた。  実際、居並ぶ少年の中には、あからさまに気を緩める者が出始める。 「この共成所は、近年施行された『青少年健全化法』を受けて、認可施設として稼働。様々な事情を抱えた大勢の若者を匿い、育んでいます。昨年には、共成者も500名を超え、なかなかの大所帯となって参りました」  この島には多数の少年少女、そして管理する大人達が住んでいる。  子供達が抱える事情は様々だ。貧困、不登校、犯罪歴。何らかの理由により、健全な育成が困難と判断された者が、ここに集まるのだという。そう説明する姿は、どこか誇らしげであった。  続けて、浦兼が目配せを送った。すると所員達が一斉に動き出し、テーブルに袋を並べ始めた。それは、ビニル袋に詰め込まれた衣服であった。 「皆さんには、これより『制服』をお渡ししますので、後ほど着替えてください。ここで強いられる数少ないルールですからね。腕時計の形(なり)をした機器の装着もお忘れなく」  袋の中身は青一色のツナギ服と電子機器。目立つのはその2点のみ。残りは歯ブラシやタオルといった、細々とした日用品だった。 「この後部屋に戻り次第、装いを整えてください。その後は自由に過ごしていただいて結構。何か質問は?」  浦兼が頷きながら見渡すが、反応は鈍い。今の説明をどう受け止めるべきか、困惑しきりなのだ。  そんな静寂の中で1人だけ、気怠げに手を挙げた。 「はいどうぞ。赤髪の好青年くん」 「えっと、自由にして良いってマジ? 勉強だったり、刑務作業みたいなのは……」 「ご心配なく。そんなものは一切ありませんよ」 「じゃあ、寝っ転がったりしてて良いって事?」 「もちろんですとも。当施設のモットーは『自由と共成』ですからな。本日に限らず明日も、その先もずっと煩わしい作業などありません。少なくとも、強要される事は無いと約束しましょう」  ここで大勢がザワつき始める。顔に戸惑いは残すものの、喜色が入り交じる様子だった。  すると、続けざまにいくつもの手が挙がる。 「自由に暮らせるって言いますけど、ここには何があるんですか?」 「大抵のものは揃っていますよ。スポーツ施設にシアタールーム。娯楽に最適なテレビやパソコン、ゲーム機等など。大自然広がる小道では紅葉狩り、砂浜なら潮干狩りにビーチバレー。発想次第で、いかようにも過ごせるでしょう」 「ゲームやネットも自由なんですか?」 「もちろんと言いたい所ですが、流石に無制限とはいきません。機器には数がありますので、予約制です。また、ネット利用の際には、指定されたアカウントでお願いします」 「逆に、守らなきゃいけないことって何ですか?」 「君たちに課せられたルールは主に2つ。指定された服装で暮らす事、外部との繋がりは手紙と面会に限る事。それくらいですね。あぁ、暴力や窃盗といった、法に抵触する行為が禁じられている前提での話ですよ」  一同は半信半疑ながらも、ひとまずは主旨を飲み込んだ。皆が左右を見渡しては、初対面であるのに、短い会話を交わしている。  ただ1人、うつむく羽澄だけを除いて。 「色々と質問はあるかと思いますが、此度はここまでとします。何か不明点があれば、どうぞ気兼ねなく、近くの所員にお尋ねください」  話はそこまでだった。一同は会議室からの退室を促されると、場所を変えた。  そうして連れられたのは、中央棟から離れた男子寮。こちらも建物の内外は整っており、やはり刑務所らしさは皆無だった。  待遇も悪くない。羽澄に与えられた部屋は広く、4人部屋だった。寝泊まりするのは3人のみで、端の一角は空席。その為に余分さまでも感じられた。 「すっげキレイじゃん。オレの部屋よりずっと良いぞ……」  赤髪でツーブロックヘアの男が、自分のベッドに寝転がりつつ言った。そして忙しなく付近を漁り、脇の棚の引き出しを開いては閉じる。  そんな彼の呟きには、誰も答えない。全員が初対面で、気安く話す関係に無いからだ。どこか気不味い空気の漂う中、着替えも無言。3人とも身なりを青ツナギに変えた。  するとタイミングを見計らったように、所員が訪った。食事を満載したワゴンが届いたのだ。そこでも赤髪は興奮して、声を高くして叫んだ。   「おおっ! 晩メシも結構豪華だぞ、オイ! 何だよここは、マジで天国なんじゃねぇか!?」  赤髪のルームメイトは、体格も大きく、声量も相当なものだ。特に聞こえよがしに怒鳴ると、耳にうるさいほど響く。 「何だこれ、書き置きか? ええと、明日の朝食からは食堂で食事が出るから、時間内に集まる事。その時はモバイルバンドを忘れずに、だとさ!」  ここまで羽澄達が反応しない事に、とうとう赤髪は腹を立てた。その怒声は、通路の端まで届きそうである。 「おいテメェら、シカトすんじゃねぇよ! これから相部屋でやってく仲間だろうが!」  部屋内の主導権が定まった瞬間でもある。この怒声をキッカケに、彼を中心としたグループが、たどたどしくも出来上がる。  羽澄にも逆らう理由はない。無言のまま、流れに従う素振りをみせた。ただし、あくまでも最低限。食卓は共にしても、会話には参加せずにいた。 「晩飯はハンバーガーに魚のフライ、トマトスープ。他にリンゴジュースとかプリンまで付いてる! オカワリもあるぞ!」 「確かに豪勢だなぁ……。実家でもこんなに食べらんないよ」  折りたたみテーブルにパイプ椅子のみという簡素な食卓だが、不満を並べる者は居なかった。むしろ上機嫌になって頬張り、ジャンケンによるプリン争奪戦を繰り広げるなどして、2人は腹を満杯にした。一口だけ啄んではお終いにした羽澄とは対象的である。  そんな食事の後、ようやく会話らしい会話となる。話題はもっぱら身の上話だった。 「つうか自己紹介してなかったな。オレは根岸遊真(ネギシユウマ)だ。よろしくな」  赤髪は不遜に首を傾げつつ名乗った。もう1人は名を伊藤公好(イトウキミヨシ)だと続けた。  羽澄も一応は簡潔に名乗り、後は押し黙る。 「ところでさ、お前らも何かやらかしたクチか? まぁ、2人とも全然そうは見えねぇけど。ヒョロガリだしよ、オレとは生きてる世界が違ぇんだろうな」  根岸がやや上から見下すと、鼻息を荒くした。伊藤はにわかに首を傾げつつ、問いかけた。 「何かって何さ」 「言わせんな。犯罪だよ、犯罪」  根岸がハッキリ言うと、途端に空気が張り詰めだした。 「ちなみにオレは傷害だ。敵対するグループの拠点に乗り込んでよ、10人ぐれぇ金属バットでボコしてやったんだ。そしたら、こうして捕まって島送りだよ」  やはり誇らしげな根岸は、次を促した。羽澄は今も黙りこくるので、伊藤が会話を繋いだ。 「えっと、うちは割と貧乏なんだけど……」 「貧乏って事は、万引きでもやらかした? チンケな犯罪で捕まりやがって」 「いいや、何もしてない。実は僕って不登校気味でさ。更生する為にって事で、親とか民生委員に説得されたんだ。養っていくのも大変だったみたいだし、仕方が無かったよ」 「ふぅん。そんなパターンもあるんだな。引きこもりねぇ」 「引きこもりじゃない。外は出歩いてたから」 「どっちも似たようなもんだろ。さてと。残りはお前だ、根暗野郎。何やらかしたんだよ?」  ここで2人が羽澄に向く。喋るまでは逃さないという、圧の込もった視線である。  隠す方が面倒に違いない。羽澄は、観念して呟いた。 「……とう……すい」 「アァ? 聞こえねぇよ。もっとデケェ声で言えや」 「強盗および殺人未遂」 「サツジンーーッ!?」  ここで室内の空気が一変。2人は身を捩らせ、露骨に避ける仕草を見せた。 「お前ガチのやつじゃん。絶対オレが一番のワルだと思ってたけど、上には上が居るもんだな……」 「凶暴さで言えば、君も引けを取らないと思うけど」 「何か言ったか伊藤、アァ!?」 「いや、別に……」 「言っとくがな、オレは仲間を守るために戦ったんだよ。つまりは正義だった訳。コイツみてぇに金目のモンは盗ってねぇ。一緒にすんな」 「君がそう言うなら、そうなんだろうね」 「つうかさ、やる事なくて暇すぎんだろ。さっそく探検に行くから付いてこい」  提案に対し、羽澄は無言で拒絶。間もなく根岸は、伊藤だけを連れて立ち去った。  ようやく解放されたと、羽澄は1人溜息を溢す。しかし今度は別の苦痛に苛まれてしまう。 「何だこれ、まさか幻聴じゃないよな……?」  ひっきりなしに物音が聞こえる。当然だ。辺りの部屋には多くの住人が居るのだから、何も聴こえない方が不自然である。  だが何故か、話しかけられた錯覚を覚えた。音の響きがどこか口語的で、羽澄に向けて投げかけられたように感じられたのだ。  耳を掌で強く擦った。不快感が鼓膜にへばりつくように思えて。 「もういい。今日は寝てしまおう」  長旅の疲れか、じっとりとした眠気が感じられる。少しは眠れるとありがたい。彼はここしばらく、熟睡とは無縁だった。 「明日から自由なんだろ。だったら時間はたっぷりある。島の中を調査して、その後……」  死を選ぶ。誰にも邪魔されず、独り静かに死ねるよう、機を見計らった上で。  うっかり生き残って、半身不随にでもなる事態は避けたい。やるなら1度きり、確実であるべきだ。その為にもロケーション選びは熟考したかった。 「刃物でも見つかれば楽なんだけど、さすがに無理筋か……」  脳内でシミュレートするうち、意識は次第に薄れゆく。そして眠りに落ちた。  ただし羽澄にとって、眠りが救いになるとは限らない。抑圧してきた様々な感情が、半覚醒を機に押し寄せる場合があるからだ。  この瞬間など、まさにそんなタイミングだった。 ――どうしてこんな大それた事を! 本当は違うんでしょ!? ――これは何かの間違いだ。お前が犯罪者だなんて信じられない。嘘だと言ってくれよ、俊!  両親の嘆きは何よりも効いた。妹の穂乃香など、大泣きに泣くばかりで、もはや言葉にすらならなかった事を思い出す。 ――お前みたいなやつ、もう友達じゃない。とにかく話しかけないでくれ、迷惑なんだよ。  友人や知り合いからも絶縁された。幼馴染からクラスメートに至るまで、その全てから。少なくとも味方は1人も残らなかった。  他人との縁が切れる時は、こうもアッサリ切れるのだと、身をもって思い知ったものだ。 「違うんだ。オレは家族を守るために、仕方なく……!」  夢と現実の狭間で、思わず声が漏れた。そこでハッとした羽澄は、勢いでベッドから起き上がった。  まどろみは休息では無かった。大量の汗がツナギを濡らしており、ひどく不快に思う。 「あぁもう、勘弁してくれ……」  羽澄はここでも、何者かの声を聞いた。それは記憶の中で罵られるものとは違い、耳を通して響くものだ。しかし室内には誰も居ない。声が明瞭に聞こえる理由がないのだ。  もはや幻聴としか思えない。長旅の疲れが彼にそうさせるのか。あるいは、環境の激変が心に負荷をかけて、有りもしない声を聞かせたのか。  いずれにせよ、羽澄は地獄を味わう事になる。 ――お前さえ居なければ。 ――お前が現れるまで幸せだったのに。 ――どうして刺した。傷が痛んで辛い、辛いよぉ。 ――他人に迷惑かけて生きるのは楽しい? ――まだ生きてやがるのか図々しい、早く死ねよ。 ――死ねよ。 ――死ねよ。 ――死んじまえよ。  恐怖の虜となった羽澄は、ジッとしてなど居られない。たちまち毛布を投げ捨てては、部屋から飛び出した。 「やめろ! 頼むからもうやめてくれ!!」  幻聴は止まない。むしろ時が経つほどに、強くなるようだった。囁き声は次第に音の太さを増していき、遂には羽澄の体内で響くようになる。  羽澄は血眼になって付近を探した。刃物はロープはと、懸命になって駆け回るが、何も見つからない。さすがに、事故防止の為か徹底管理されている。ろくな道具が見当たらなかった。 「だったら崖だ! あの高さなら!」  浜まではかなりの距離がある。駆け足なら数十分は掛かるだろう。  しかし羽澄は走り続けた。幻聴に追いたてられるように、悪意の渦から逃げるようにして。 「見えた、船着き場!」   付近は街灯が点々とあるのみで、人の気配は無い。つまり邪魔者も居ない。  羽澄は立ち止まりもせず、飛んだ。崖の上から躊躇いなく。苦痛からの解放だけを求めて、虚空に身を投げたのだ。  それからは真っ逆さまだ。身体はみるみる加速してゆき、勢いは増すばかり。  そうして羽澄は、頭からアスファルトに打ち付けられた。痛みはほんの一瞬だけだった。視界が紅く染まる頃には、あらゆる感覚が遠のいていく。 「これで、ようやく終わるんだ……」  羽澄の心はようやく平静を得た。あんなに苦しむくらいなら、早く死ねば良かったとすら思う。しかしそんな感想も無駄である。間もなく命の灯火が消え去るのだから。  やがて視界がゆらぎ、遠ざかる。考えるまでもなく最期の時だった。  羽澄が抱く望みは1つだけだ。過去の記憶を呼び覚ましながら、眠りにつくこと。当たり前のように平穏で、家族が仲睦まじく暮らす日々を、心に思い浮かべながら終わりにしたかった。 「さよなら。父さん、母さん、穂乃香……」  リビングで、近くのレストランで、旅行先で眩い笑顔が並ぶ。楽しかった。幸せだったと確信出来る。そんな毎日だった。  だが、羽澄のささやかな願いすらも、無粋な横槍が入る。突然、何者かの声が割り込んできたのだ。 ――私の言葉が聞こえるだろうか。どうか耳を傾けて欲しい。  聞き慣れない声が脳裏に響きわたる。  誰が、どうして邪魔をするんだ。恨み言を怒鳴り散らしてやりたくなる。だがそんな激情を最後に、羽澄は意識を手放した。後は漆黒の闇に堕ちるばかり。  どれだけの間、暗闇に身を委ねただろう。無音無明の世界を延々と流されていく。五感なら、ほとんど意味を為さない。ただひたすら、延々と渦に飲まれ行く感覚があるだけだ。  やがて羽澄は小さな音を聞いた。それは徐々に大きくなり、やがて話し声だと理解する。 「あぁ、良かった。ようやく会えたな。私の声が聞こえているね?」  その声は、やはり馴染みのない声だった。
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