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   覚えているのは針の痛みと、潮の香り。そしてゆっくりと話し続ける誰かの優しい声だけだった。  瞼に光を感じることはあったが、いつも覚醒には至らない。そこに到達する寸前に、まるで誰かに腕を掴まれ、まだそっちに行ってはいけないと言われているみたいに、オレの意識は暗く、深い眠りの中に落ちていった。でも、そこに苦痛や恐怖はなかった。むしろ硬くて冷たい泥の中から引き上げられていくような暖かい安心感があった。そこではどのような種類の不安も感じることはなく、オレは鮮やかな暗闇の中にいた。  いつも夢を見ていた。それは、細部まで詳細で綿密に構築された誰かの人生を、オレという役者が繰り返し延々と演じ続けるという、奇妙な夢だった。でもそれは誰かの人生などではなく、紛れもなくオレ自身の人生だということは感覚でわかった。  その夢は永遠と思われるほど長い時間続いたようにも思えて、一瞬で過ぎ去ってしまったかのようにも思えた。  しかし、あるとき突然、まるでその瞬間を待っていたかのように、オレの意識は覚醒へと向かい出す。光の届かない深海から徐々に陽の光が差し込む海面に浮上するような感覚の中、ゆっくりと瞼が開いた。そのとき微かに花の香りがした気がした。  先ず眼に映ったのは真っ白な天井だった。シミ一つない天井は控えめな陽光を受け、光色に輝いている。その中でシーリングファンが音もなく回り続けていた。それは初めて見る天井だった。オレは知らない部屋の知らないベッドに寝ていた。  知らない部屋にいることに混乱したオレは、慌てて身体を起こそうとするが、起き上がるのにとても時間がかかった。身体はとてもだるく鉛のように重かった。まるで数ヶ月もの長い間、ずっと眠り続けていたかのようだった。  オレはいつから眠っていたのだろう。随分と長い間眠っていた気もするし、数時間しか眠っていない気もする。  ぼんやりした意識がはっきりしていくにつれて、脳みその全ての皺から、ありとあらゆる汚れを落としたみたいに頭がスッキリとしていることに気が付いた。それは、いままで体験したことない程の気分の良さで、生まれ変わったかのように頭が軽かった。  まったくの正反対の状態の頭と身体を携えたオレは、ベッドから降りると、先ずゆっくりと注意深く身体を折り曲げたり伸ばしたりした。全身の筋が軋んだ音を立てながら本来の形に戻ろうとする。  部屋の中を見渡すと、そこは寝室のようだった。オレが寝ていたベッドの隣には、同じキングサイズのベッドがもう一つ並んでいる。皺ひとつないシーツの上にはぽつんとテレビのリモコンが置いてあった。壁には大きなテレビがかかっている。  そういえばいまは何時なんだろう。寝室に時計はない。ブラインドから漏れてくる光を見るに、真夜中でないことは確実だったが、朝か昼かは判然としない。オレは徐にリモコンを取り、テレビを点けた。画面にニュース番組が映し出される。  『先日七月九日、神奈川県川崎市東扇島で二十九歳の男性が海に転落し死亡しました。警察と消防によりますと、九日午前七時前、釣りにきていた六十一歳の男性から「人のようなものが浮いている」と通報がありました。海に転落したのは神奈川県川崎市の無職、松屋雄図さんで、通報から約四十五分後に救助されましたが、松屋さんに意識はなく、搬送先の病院で死亡が確認されました。松屋さんの身体からは大量のアルコールが検出されており、誤って海に転落した可能性があるとして、警察と消防は、事件と事故の両面で捜査を進めています』  キャスターが硬い表情でニュースを読み上げていたが、内容のほとんど聞いていなかったオレは、画面の左上に表示されている時間だけを確認すると、すぐにテレビを消した。現在時刻は十五時十七分だった。  リモコンをベッドの上に放ると、オレはふらふらと寝室を出て、リビングに移動する。リビングはかなりの広さだった。シェードカーテンが上がりきった窓からは、午後の陽光がたっぷりと降り注ぎ、部屋中を真っ白に輝かせていた。  リビングは綺麗に片付いており、ほこり一つ落ちていなかった。オレは光で満たされた室内を何度か見渡し、ひとしきりうろついた。でも、いくら見渡してみても、そこはやはりまったく見覚えのない部屋だった。  そもそもここはどこなんだろう。他人の家に勝手に入ってしまったような不安感が胸の内に広がり始めたオレは、助けを求めるように窓の外に眼を向ける。  窓の外には見渡す限りの青空と、絵に描いたような入道雲。そしてエメラルドグリーンの海が広がっていた。  その景色を見た瞬間、胸の内に広がりかけていた不安感は煙を吹いたように一瞬で消し飛んでしまった。それほどまでに雄大で、美しい景色だった。そして思った。オレはこの景色を知っている。そうだ、ここは。 「ここは、沖縄だ」  いつの間にかオレはそう呟いていた。窓の外に広がる色は昔、家族旅行で来たときに見た色と同じだった。でもオレはなんで沖縄にいるのだろう。飛行機に乗った記憶もなければ、この建物にどうやって来たのかもまるで覚えていない。  オレはここでなにをしているのだろう。そして、なにをしようとしているのだろう。  外に出て辺りを散策すれば何か思い出すかもしれない。玄関を探すために室内に視線を戻したとき、部屋の隅に小さな段ボール箱を見つけた。宛名のシールは剥がされている。オレはしゃがみ込んで、その箱を手に取ってみる。重みからなにかが入っているのがわかった。自分に宛てられた物かもしれないと思ったオレは、テープを力任せに剥がして箱を開ける。 「こーら」  突然、頭上から声がした。驚いて声のした方向へ眼を向けると、そこには女が立っていた。彼女は大きなサングラスをかけ、黒のタンクトップの上に薄手のシャツを羽織っており、その格好は、まさに一分の隙もない夏の装いだった。 「女の子の荷物を勝手に開けるなんて、随分と大胆なことするんだねえ」  誰だ? オレはその女を見上げたまま固まってしまう。なにを言うべきかも、口を開いていいのかもわからない。 「なに? 呆けた顔しちゃって」  女はくすくすと笑いながら緩慢な動作でサングラスを外す。そのとき、覚えのある花の香りがした。オレはその香りをよく知ってた。ずっと夢の中に漂っていた、あの甘く、優しく、落ち着く香り。 「姉さん」  無意識のうちにそう言っていた。なんで忘れていたのだろう。オレは彼女の存在を鮮明に思い出す。 「はーい。お姉ちゃんが帰って来ましたよお」  姉さんはオレの頭をくしゃっと撫でると、そのままずるずると床にへたり込む。彼女の眼はとろんとしており、少し酒の匂いがした。 「姉さん、酔ってる?」 「少しねー」  姉さんは気分が良いのか、左右にゆらゆらと揺れながら、持っていたボトル缶のブラックコーヒーを少しだけ口に含んだ。 「どこに行ってたの?」 「本土だよ。神奈川県。行ってくるって言ってたじゃん。忘れちゃったの?」  記憶を探ってみると、確かにそんなような会話をしていたかもしれないという記憶に行き当たる。 「ああ、そうだったね。でも、なにしに神奈川に行ったかは聞いてなかったと思うけど」 「あちゃ、確かにそれは言ってなかった。うーん……諸々のあとしまつかな」  姉さんはまるで辞書を引きながら、注意深く言葉を探すような顔をして言った。 「あとしまつ? なにそれ?」  太陽が雲の間に隠れたのか、室内が薄い膜のような影で包まれる。 「こっちの話だよ」  姉さんは眼を細めて妖しく笑う。そこにはどこか、機械の動作確認を慎重に行うような、なにかを品定めするような、そんな感情が混ざっているような表情だった。姉さんの視線に、なぜかオレは少し緊張する。  姉さんはなにも言わず、オレもただ黙っていた。耳が痛くなりそうな沈黙が部屋をゆっくりと横切っていく。雲間から太陽が姿を表すまでの数十秒間、オレたちは無言でお互いの顔を見つめあっていた。 「ところで、それ、いつまで持ってるの?」  はっと思い出して手元を見てみると、オレの手には女性用の下着が握られていた。数秒の思考停止の後、一瞬で血の気が引く。 「ち、これは、違うよ」  オレは慌てて下着を箱の中に戻した。 「あははっ。わかってるよ。自分宛ての荷物だと思ったんでしょ? 宛名書いてないもんね」  姉さんは意地悪に笑うと、また頭を撫でてくる。今度はとても優しく、愛おしそうに。 「やめてよ……」  気恥ずかしくなったオレは姉さんの手を払う。でも本当は、子供の頃に戻ったみたいで、とても懐かしくて、嬉しかった。 「真っ赤な顔しちゃって。まったく可愛いんだから」 「ごめん。勝手に荷物開けちゃって」 「んー、じゃあなにかごはん作ってくれたら許す。昨日からなにも食べてないから、流石にお腹減っちゃった」 「え。なにも食べてないの?」 「そうだよ? 知ってるでしょ、私が外食嫌いなこと。せっかく食べるなら、ヒロくんの作ったごはんがいいもん」  姉さんはそう言うと、箱を抱えて立ち上がる。そうだった。理由は思い出せないけど、確かに姉さんは外食があまり好きではなかった。 「わかった。じゃあすぐ作るから少し待ってて」 「じゃあその間に酔い醒ましにシャワーでも浴びてこようかな。新しい下着も着けてみたいし」そう言った姉さんは脱衣所へ向かい、オレはキッチンへと向かった。冷蔵庫を開けると中には様々な食材が入っていた。なにを作ろうか迷う。 「あ、ヒロくん」  振り向くと、半開きになった脱衣所の扉から姉さんがひょこっと顔を出して、こちらに手招きしていた。オレは脱衣所の前に行って、なに、と応える。 「一緒に入る?」 「入りません」  オレはそっと脱衣所のドアを閉める。ドアの向こうから、えーなんでよー。一緒に入ろうよー。という駄々をこねる声が聞こえてくるが、無視してキッチンに戻った。壁に掛けられている時計を見ると時刻は十五時三十九分だった。昼食にしては遅すぎるし、夕食にしては早すぎる。難しい時間帯だった。しばらく食材を眺めていると、卵が眼に入った。そのとき、ある料理が頭に思い浮かんだ。  それからは早かった。オレは先ず鍋に昆布だしを入れ、中火にかけると、かつお節を加え、沸騰直前まで煮込んだそれを漉して一番だしを取る。そこに醤油、酒、みりんと浮き粉を加えた合わせ調味料を、溶いた卵に少しずつ混ぜたら、サラダ油をなじませたフライパンで少しずつ焼いていく。  ここでオレは、それまでの工程を、レシピなどを一切見ずにやっていたことに気付いた。それは長年染みついた癖のように身体を自動的に動かしていた。確かに昔から料理をするのは好きだったが、ここまでスムーズに出来るとは自分でも驚きだった。  そんなことを思っていると、突如、堰を切ったような空腹感が襲ってくる。それはまるで、何か月間なにも口にしていないと思ってしまうような強烈な空腹感だった。眩暈を覚えたオレは、先ず火を消すと、野菜室にあったトマトを一気に二つ食べた。そして気分が落ち着くまでその場にしゃがみこんでいた。 「どうしたのヒロ君。大丈夫?」  背後でシャワーを終えたであろう姉さんの声がした。大丈夫、ちょっと眩暈がしただけだから。と言って振り向くと、そこには下着しか着けていない姉さんの姿があった。オレは視線を元の場所に戻す。別の意味で眩暈がした。それに、姉さんの下着姿なんて小さいころから何度も見ている筈なのに、このときは何故か初めて女性の下着姿を見たときのように心が動揺した。 「な、んで服着てないの?」  オレは動揺を悟られないように言おうとしたが、一言目から盛大に声が裏返ってしまう。 「新しい下着見てもらおうと思って。どう? 似合ってる?」  姉さんは明るく楽しそうにそう言った。 「似合ってるよ」  もっとちゃんと見てよー。と姉さんは不満げに言った。羞恥心はないのかと思ったが、異性とはいえ、そもそもは長年一緒に過ごしてきた家族た。今更そんなんなものはないか。と思いつつ、オレは再び振り返り姉さんの姿を見る。身体はまだ少し濡れていて、髪からは水滴が滴っていた。 「どう? ねえ、どう?」   姉さんははつらつとした声で言うが、発した言葉とは裏腹に、その表情の奥にはどこか、恥ずかしさのようなものが混ざっているように見えた。 「うん。よく似合ってる。綺麗な色だし、とってもかわいいよ」  オレは素直に感じた印象を口に出す。 「…………そ……そう、ですか? えへへ、嬉しいです」  姉さんは数秒の沈黙のあと、真っ赤な顔をしてそう言った。彼女はしばらく両手の指の腹を合わせる仕草をして、その場でもじもじにやにやしていたが、突然なにかに気付いたような表情になり、逃げるように脱衣所へ引っ込んでいった。  なんなんだあの人は。おれは半ば呆れつつ彼女の背を見送った。  でも、なんだか姉さんの纏う雰囲気が一瞬だけ別人に変わったような気がした。そんな違和感を感じているうちに眩暈の治まってきたオレは、ゆっくり立ち上がって料理を再開する。 「あー。酔いも醒めたー。わ、いい匂いがするね」  ゆったりとしたラップドレスを着て脱衣所から出てきた姉さんは、ダイニングテーブルに座ると、さっきの出来事などなにも無かったかのような態度で髪を乾かし始める。どうせ悪ノリでやってみたものの、想像以上に恥ずかしかったから全部無かった事にしたいのだろう。そう思ったオレは、それ以上はなにも言わず、戸棚からおろし金を取り出し、大根を手にする。感じた違和感もどうやら気のせいだったみたいだ。 「もうすぐ出来るから座って待ってて」 「はーい」  姉さんがテレビを点けると夕方のニュース番組が流れ始める。女性キャスターの無機質な声が部屋の中に自然に広がっていく。オレは特に意識することもなく無心で大根をすりおろし続けていた。 『次のニュースです。先月六月二十八日午前二時半ごろ、台東区蔵前の木造二階建てアパート一棟が全焼し、焼け跡から一人の遺体が見つかった火事で、蔵前警察署は今月十日、遺体は千代田区の大学に通う大学生、都桝松子さん二十歳と判明したと発表しました。死因は失血死とみられています。捜査関係者によりますと、遺体は損傷が激しく、背中には何者かに刺されたとみられる傷があり、警察はアパートの出火原因を調べるとともに容疑者の行方を追っています』  凍ったように身体が固まる。なんでそうなったのかはわからない。ただ自然に身体がそう反応した。なにかが記憶に触れそうになったが、何かを思い出そうとしても何も思い出せない。何も思い浮かばない。オレはいまなにを聞いた? オレの記憶は何に反応した? 意思とは関係なく脈搏が早くなり、呼吸が苦しくなってくる。心臓の鼓動が耳元で鳴っているようにうるさかった。 「ねえ、知ってる?」  思考を遮るように姉さんが言った。オレは黙ったまま姉さんを見る。彼女の視線は、真っ直ぐにテレビの方を向いていた。 「焼けて芯まで真っ黒に炭化した死体からはDNAなんて採取できないし、歯はポップコーンみたいにぼこぼこになっちゃうから歯型による身元確認もできない。だから、その焼死体が生きている頃に生活したであろう範囲の皮膚片や汗などから、その人の存在を肉付けしていって、最後は状況証拠で焼死体を本人だと法律上認めるの」  姉さんは画面を見ながら独り言のように呟いた。 「なんの話?」 「この死んじゃった子は、はたして本人なのかな? ってはなし」  姉さんはなにかを嘲笑うような軽い声でそう言った。こちらを向いた眼は陽の光を受けて、妖しく光っているように見えた。 「本人でしょ。日本の警察は優秀だからそんな適当なことは絶対にしないよ。法律だってオレたちが思っている以上にしっかりしてるだろうしね」 「だよねー。私もそう思う。これもどこかで聞いた話だし。どーせ嘘だよね」 「そうそう。世の中はちゃんと出来ているよ。はい、できたよ」  オレは完成した料理をテーブルに並べると、椅子に座って姉さんと向かい合う。 「わー。おいしそう。だし巻き玉子だー。いただきまーす」  姉さんは手を合わせると、待ってましたと言わんばかりに玉子を口に運ぶ。 「んー、おいしいー。ふわっふわだ。やっぱりヒロ君の料理は最高だよー」  頬に手をあて、眼を輝かせながら姉さんは言った。 「ポイントは浮き粉だね。それを卵に加えると、ふわっとした食感に仕上がるんだよ。それに……」 「どうしたの?」 「いや、前にもこんな感じの会話ってしたことなかったっけ? 卵を漉すと仕上がりが良くなるとかどうとか。ローテーブルで、お互い向かい合ってさ」  急に頭が真っ白になったと思ったら、とある情景が思い浮かぶ。でもそれは実際に起きたことなのか、夢で見た景色なのか、確信が持てなかった。姉さんは一瞬真顔になったが、すぐに口元に微笑が浮かぶ。 「そりゃあたくさんしたよ。ヒロ君は毎回作った料理のこだわりポイントを教えてくれるじゃん。卵を漉すって話は、一緒に住んでいたアパートでオムレツを作ってくれたときに話してくれたんだよ。前にハンバーグを作ってくれたときなんかはさ……」  オレたちはテーブルを挟んでたくさん話をした。それがきっかけになったのか、ずっと開かなかった箱がある拍子にふっと開いたように、様々な記憶がよみがえってくる。それらの記憶は鮮やかで克明で、不思議なくらい順序立っていて、まるで何度も観た映画を観返しているような気分になる。  両親はオレが九歳、姉さんが十七歳のときに交通事故で死んだ。  まだ幼かったオレたちは親戚の家に引き取られるが、その家族と折り合いが悪く、居候先の家でオレたちは、気配を殺すように生活した。あの家で過ごした時間は、いま思い出しても最悪だった。  姉さんが高校を卒業した年に、オレたちは逃げるようにその家を飛び出し、四畳半のボロアパートで二人暮らしを始めた。姉さんは大学には行かずに就職して、オレのことを育ててくれた。居候をしていた頃に比べて、ずっとずっと貧乏だったが、それでも毎日がとても満たされていた。誰にも侵害されない二人だけのこの世界が、オレは大好きだった。  そんな生活が数年続き、姉さんが成人した年、交通事故を起こした会社からの賠償金と、まったく手を付けていなかった両親の遺産を合わせて一億円近くのお金がオレたちの手元に入って来た。  急に転がり込んできた大金の使い道には悩んだが、あるとき姉さんが沖縄に家を買おうと言い出した。両親の生前、家族で行った沖縄旅行でオレたちはあの海に、あの空に、あの空間のすべてに魅力されていた。最初は家を買うなんて土台無理な話だと思ったが、調べてみるとあながち夢ではないことが分かった。その瞬間に、オレたち二人の人生の目標が決まった。  それから姉さんは仕事以外にいくつもバイトを掛け持ちして、いつ寝ているのかわからないくらい一日中働いた。まだ中学生だったオレは、近所に住んでいたなにかと気をかけてくれるおじさんの紹介で、新聞配達のバイトを始め、その他の時間で家事全般をこなした。料理が好きになったのもこの頃からだった。姉さんはいつもオレの作る料理を美味しそうに食べてくれた。  オレは学校と、夕方のアルバイトが終わるとすぐには家に帰らず、毎日近所の図書館に入り浸り、閉館時間まで過ごした。姉さんが帰ってくるのは夜だったし、一人で家にいても光熱費がかかるだけだったから、図書館はいい時間潰しになった。そこでオレはたくさんの本を読んだ。  もちろん一番熱心に読んでいたのは料理本だったが、その他に小説や図鑑や専門書まで、眼についた本は片っ端から読んだ。でも、それは今になっては読んでいたとは言い難かった。オレのしていたことは、ただ時間を潰す為に文字を追いかけていただけだった。文字を追っていればすぐに時間が過ぎた。だから、内容は覚えていても心に残っている本はほとんどない。  オレは中学を卒業したら高校には行かずに就職して働きたかったが、姉さんはその考えを許してはくれなかった。そんな無駄金を使うくらいなら働いて貯金して早く沖縄に行きたいというオレの主張と、人生はなにがあるかわからないから将来の選択肢を多く持っておくことに越したことはない。中卒と高卒では将来の選択肢の数も全然違う。だから高校に行け。という姉さんの主張は真っ向から対立し、オレたちは何度も大喧嘩をした。話し合いはしばらく平行線を辿ったが、最終的にはオレが折れて高校に行くことになった。いま思えばそれ以来姉弟喧嘩はしていない。  せっかく行かせてもらうのだからと気持ちを切り替えたオレは、それまで以上に勉学に励み、難なく第一志望の公立高校に合格した。そして高校に通いながらバイト三昧の生活が始まる。その間も一切の家事はオレが担当した。その影響なのか、姉さんはいまでも家事が苦手で、たまに張り切って料理をしても、出来上がるのは例外なく黒焦げになった炭の塊だった。それを見るたびにオレは食材に対する憐れみを感じないわけにはいかなかった。  特に問題もなく高校を卒業すると、オレは大学には行かず、近所の金属加工工場に就職した。勿論ほかのバイトも掛け持ちした。オレと姉さんは、恋人も友人も作らず、遊びにも行かず、趣味も持たず、ただ、一心不乱に働き続けた。毎月給料がちゃんと振り込まれているかどうかの確認は欠かさなかったが、現在の貯金額の合計がどれくらいあるかなんて、いちいち確認はしなかった。   毎日なにかに取り憑かれたように働いて、働いて、働いた。就職して一年目に、誤って廃材が腹に刺さって大怪我をしたときも、最低限の治療だけして翌日も仕事に出た。そのときの傷は今も残っている。  もしかしたらこのときのオレたちの生き甲斐は、沖縄に家を買うことではなく、働くという行為自体だったのかもしれないと、今となっては思う。でも、そんな日々も全然辛くはなかった。むしろ幸福と充実を感じていた。  そのような生活が四年ほど続き、姉さんが三十歳、オレが二十二になった今年のはじめ。ある日、なんとなく預金額を確認してみると、いつの間にか貯金が目標額を超えていた。その事実を認識したときにオレが感じたのは、意外にも達成感ではなく、胸に穴が空いたような虚無感だった。姉さんも同じことを感じたようで、ずっと彼女の中にあったエネルギーのようなものが急速にしぼんでいくのがありありと感じられた。その日の夕食がなんの味もしなかったことをよく覚えている。  それからすぐオレたちは、示し合わせたかのように仕事やバイトの全てを辞めた。ついこの間まで感じていた怒りのような働くことへの情熱は、完全に消えてしまっていた。  それは、急に降って湧いた空白の時間だった。いつも何かに追われていて、その状況が当たり前だったオレたちは、その使い方を知らなかった。なにをすればいいのか思い付きもしなかった。オレたちは家に引きこもって抜け殻のように過ごした。  あるときは、窓際に並んで座って一日中空を見ていたり、あるときは、横になって、ただぼうっと天井を眺めていた。食事も睡眠も摂らず、それをずっと続けていた。そのあいだ頭に浮かんでいたのは「動かなきゃ。何かしなきゃ」という理由もない焦りと、「でも、もう何もする必要はないんだ。だって目標はもう達成されてしまったのだから」という理由のある諦めだった。それらの思考は、まるで波のようにやってきて頭を支配しては、次の瞬間には、すっと消えていった。オレたちは、その狭間を揺蕩いながら一日、また一日と時間を食い潰していった。一時はあんなに憧れてやまなかった沖縄の情景は一瞬も意識の表層には上ってこなかった。このときのオレたちは、明らかに人生の次の目標を見失っていた。  そんな状態の生活が一週間ほど続いたある日、それまで横になっていた姉さんは、突然飛び起きると、「遊ぼう」と言い出した。  遊ぶとはどういうことだと聞こうとする間にも、姉さんは部屋着から外着へ着替え、素早く簡単なメイクを済ますと、オレに外着を押し付けてくる。着替え終わるや否や、彼女はオレの手を引いて街へと飛び出す。  それからオレたちは数日間ずっと遊び続けた。まるで失った何かを取り戻すかのように、家にも帰らず、ただひたすら遊び続けた。  初めてカラオケに行った。初めてお洒落の為の服を買った。初めて映画をはしごした。初めて記憶をなくすまで酒を飲んだ。初めて高級レストランでフルコースを食べた。アーティストのライブに行った。ドライブに行った。ゲームセンターに行った。遊園地に行った。水族館に行った。動物園に行った。温泉に行った。そして酒を片手に、目的もなく延々と散歩をした。  それらは初めて感じる種類の楽しさだった。オレは本当に久しぶりに、むしろ初めてなのではないのかというほど心から笑った。数日前まで灰色に見えていた世界は、いまでは毒々しいほどの極彩色に染まっていた。  二人でかなり遊び歩いても、まだ手元には十分過ぎるほどの金が手元に残っていた。随分安上がりな青春だねと、二人で笑った。 「楽しいね」  静かな三日月の夜に、姉さんは独り言のようにそう言った。オレは無言で頷いた。 「まだまだ世の中には楽しいことが沢山あるんだね。全然知らなかったよ」  眼を細めて月を見上げた姉さんの横顔は、どこか切なそうで、なんだかいまにも消えてしまいそうだった。彼女はしばらくぼうっと月を眺めたあと、いきなりオレの肩を掴む。 「ダメだよヒロくん。私たちは、まだこんなところで燃え尽きていちゃダメなんだ」  姉さんはオレの肩を力任せに揺さぶってそう言った。その眼には、かつての情熱が戻っていた。姉さんの表情を見たとき、不意に胸が熱くなった。 「もっと二人で楽しいことをしよう。もっと人生を楽しもう。私たち二人の人生はこれからだよ」  オレは姉さんの眼を真っ直ぐ見つめて頷いた。それからオレたちはその足で必要なものを買い揃えて、翌月にアパートを解約し、沖縄に渡った。そしてオレは、いままでの緊張が一気に解けたのか、この家に着くや否や、姉さんの話もろくに聞かず、数日間泥のように眠り続けた。それが三日前のことだった。  オレは全てを思い出していた。あまりに全てを鮮明に想起できる自分の記憶力の高さに、我ながら驚いた。  そこまで話したとき、部屋の中が薄暗いことにようやく気付く。窓の外に眼を向けると、空には夕暮れが迫っていた。青とオレンジと紫色のグラデーションが海を静かに染め上げている。 「ちょっと辺りを歩かない?」と姉さんが言い、オレたちはサンダルを履いて外に出た。独特の湿り気を帯びた空気が身体を包み込む。  家のすぐ裏はビーチになっていた。オレたちは誰もいない砂浜を無言で歩いた。聞こえてくるのは波の音と、砂を踏み締める足音だけで、あとはなにも聞こえない。まるで世界に二人だけになってしまったみたいだった。  オレたちは太陽が沈みゆく水平線を眺めて歩いた。ふと顔を正面に向けると、姉さんの横顔が見える。彼女は歳を取らない。今年で三十だというのに、二十代前半からその容姿はまるで変わらない。彼女の顔は、ついこの間まで十代だったような無垢さを感じさせるが、纏う雰囲気は年相応か、それ以上の重みがある。我が姉ながら不思議な存在だなと、改めて感じる。 「なあに? お姉ちゃんの顔じろじろみて」  姉さんはこちら側に身体を向けると、眼を細めてにんまりと笑った。 「別に。ただ見ていただけだよ」 「嘘だー。ああ、お姉ちゃん綺麗だな、かわいいな、愛おしいな。って思ってるんでしょ」 「思ってないよ」 「そういうことは思ってなくても思ってるって言いなさい」  おもむろに波打ち際まで行った姉さんは、波をこちらに蹴り上げながら不満そうな顔で言った。波飛沫がぱらぱらと身体にかかる。 「冷たいよ」 「うっさい、うっさい。この女の子の気持ちのわからないニブチンめ、朴念仁、唐変木、あんぽんたん、美男子、高身長、優しい、料理上手」 「後半はもう悪口じゃないね」  姉さんは何度も波を蹴り上げ、遂には手で海水をすくって浴びせかけてきた。オレも応戦し、水をかけ返す。オレたちは一分も経たないうちにずぶ濡れになった。自然に口から笑みがこぼれ、いつの間にか声を出して笑っていた。姉さんも楽しくてたまらないといった様子で無邪気に笑っていた。  このなんでもない時間に淡い幸福を感じる。でも、まるで粉雪が掌に落ちてすぐ消えてしまうように、その幸福はすぐに別の感情に置き換わってゆく。 「いまなに考えているか当ててあげようか?」  そう言うや否や、姉さんは全力で駆け出し、飛びついてきた。  突然のことにバランスを崩したオレは、なす術なくそのまま波打ち際に押し倒された。水飛沫が宙に舞って背中に波が押し寄せる。覆いかぶさった姉さんが、ぐっと顔を近づけてくる。 「何かしていないと不安になっちゃうんでしょ? そうだよね。もう十年以上もずっと働き詰めだったもんね。それしか知らなかったもんね。そんな風に考えちゃうのも仕方ないよね」  姉さんは、オレの気持ちを見透かしたかのように言った。その通りだった。ずっと働いてきた。それこそ、なにかに駆り立てられるように、命を削って目的も忘れて働いてきた。だから何をすればいいのかわからない。何もしていないことに罪悪感を感じる。何か取り返しのつかない悪いことをしているような気持ちになってしまう。 「もうヒロくんはじゅうぶんに頑張ったよ。ここにいるという現実は、あなたの努力が勝ち取ったものなんだよ。あなたはただ、それを享受すればいいだけなんだよ」 「でも」それじゃあダメな気がするんだ。  オレがそう言いかけたとき、姉さんは人差し指を唇に当て言葉を断ち切った。そして更に身をかがめてオレの眼をぐっと覗き込んでくる。 「大丈夫だよヒロくん。不安なんて感じなくていい。ここでは怖いことなんて何一つ起こらない。ここにあなたを脅かすものは何もない。あなたは私が護ってあげる」 「大丈夫」「大丈夫」「大丈夫」  姉さんは、唇と唇が触れそうな距離で、オレの眼の、その奥にあるなにかに語りかけるみたいに、ゆっくりとそう言った。その、おまじないを唱えるような声色、話すリズム、言葉の旋律は、何にも遮られることなく、真っ直ぐにオレの頭の芯に響いてくる。  オレは、自分の身体と思考が、糸のように一本一本ほどけていくような浮遊感に包まれる。自分から自分が離れていくような、心地良くも奇妙な感覚の中を揺蕩っていると、突然ある光景が頭に浮かぶ。おそらくいつか見た夢なのだろうが、いつ頃見た夢なのかは思い出せない。でもその光景は、どこか生々しい現実感と、不思議な説得力を持っていた。 「姉さんが死んだ夢を見たんだ」  オレはそう口に出した。姉さんはオレの眼をじっと見つめたままゆっくりと身体を起こし、首を傾げて話の続きを待っていた。腹部に彼女の重みを感じる。 「その夢では、姉さんがとても酷い殺され方をして、オレは延々と醒めない白昼夢の中で、ずっと消えない復讐心に突き動かされながら狂ったように性犯罪者を殺しているんだ。そんな最低なオレのことを、ある女の子が好きと言ってくれて、そんな現実から救い出してくれようとするんだけれど、オレはその女の子を拒絶して、殺してしまうんだ」 「うん」  姉さんは言う。 「今のオレはとても幸福だと思うし、人生で経験したことのない安らぎも感じている。でも間違った場所で、間違った自分と、間違ったことをしているという気持ちがどんどん膨らんで、頭から離れない。まだ白昼夢の中にいる気がしてならないんだ」  姉さんはオレの手を取ると、それを大事そうに自らの頬に当てた。彼女の頬は柔らかくて、小さい動物みたいにあたたかかった。 「ここだよ」  姉さんはそう言った。  その言葉の意味することはわからない。姉さんがどのような気持ちでその言葉を口にしたのかもわからない。でも、その意味を訪ねようとも思わない。その理由がない。だって、なにを言っても、なにを聞いても、なにを考えても、どんな不安に駆られても〝ここ〟にいるという事実だけは紛れもない事実で、オレたちはいま、ここで生きている。  オレはただ、そう感じた。  不意に視線を落とすと、姉さんの胸元には小さい花のような傷が付いていた。まるで何かで刺されたようなその傷がいつ付いたのか、思い出そうとしてみても、夢に出てきた女の子の顔と一緒で、まるで不自然に削り取られたみたいに、なにも思い出せなかった。      一定の間隔で押し寄せてくる薄い波がオレの身体に当たって跳ねると、水飛沫が顔に降り注いでくる。頬を伝う水にぬくもりを感じた。  姉さんの背に広がる留紺色の空には、数多の星がきらめき始めている。視界の中で、彼女の姿だけが浮かび上がって見える。  夜が来る。  オレは理由もわからず姉さんを引き寄せ、強く抱きしめた。突然の出来事に最初は強張っていた彼女の身体からは、徐々に力が抜けてゆき、最終的にはそのまま溶けてオレの身体と同化してしまうのではないかと思うほどに脱力する。  姉さんの安心が腕を通して全身に伝わってくる。  オレはずっと夢を見続けている。オレはもう思い出せない遠い昔から、きっと白昼夢を見続けている。確証はないが、何故か確信だけはあった。  でも、それでかまわない。これでいい。ここにはなんの痛みもない。もう不安も恐怖も感じない。ここより幸せで安心する場所は、きっと世界中の何処を探しても見つからないだろう。それならば、ずっとこの場所に居よう。死ぬまで姉さんと二人でこの場所に居続けよう。たとえ何かが決定的に間違っていたとしても。嘘くさい幸せだとしても、好きになった女の子が、人殺しだったとしても。これはきっと、数多ある幸せの一つの形だ。  それにそれは、どんな形をした不幸より、何百倍もましなのだ。  オレは、自分に染み込ませるように、この言葉を心の中で唱え続ける。まるで呪詛のように、何度も。何度も。何度も。何度も。  この白昼夢はもう。  覚めなくていい。 終
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