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4.5_1
空が紫から紺に変わり、やがて黒へと塗りつぶされてゆく。
オレは新しく買った真っ黒のパーカーとスキニージーンズを着て、路地裏の機能していない街灯の影に身を潜めている。
右手に手袋をはめているとき、ふと昼間の出来事が頭をよぎる。
「なんであんなこと」
都枡松子。彼女が誰だか知らなかった。仮に知り合いだったとしても、男に絡まれているところを無条件に助けに入るほど、オレは正義感が強いわけではない。
なら、何故あんな行動をとったのか。身体が勝手に動き、気付いたら風間の腕を掴んでいた。深く考える間も無く、ある理由に行き着く。
だって、あの彼女の姿は、あまりにも……。
「あ、ヒロくん、誰か来たよ」
姉さんがオレの肩を叩きながら小声で言う。オレは慌てて両手に手袋をはめ、目出し棒を被る。
耳をすますと、特徴的な乾いた咳が近づいてくる。甘野は常に小さな咳をしていた。おそらく奴の癖なのだろう。
街灯の影から様子を伺っていると、学校の塀から人影が現れる。眼を凝らすまでもなく甘野だとわかる。奴は大きなボストンバッグを背負っていた。中身は生徒の制服や体操服だろう。
不快さと怒りがない混ぜになった感情が頭を支配していく。感情に飲み込まれては駄目だ、冷静な判断が出来なくなる。オレは大きく息を吸い、ゆっくり吐いて、思考を通常状態に保とうとする。
「姉さんは離れてて」オレはモルヒネを二つ口に放り込む。
「あ、またそのお薬」
姉さんは不満そうな顔をするが、それ以上はなにも言わずにその場から離れてくれた。
甘野は辺りを見回し、警戒をしているが、路地は真っ暗で、街灯の影にいるオレのことは見えていないようだった。
奴が立ち去ろうと背を向けた瞬間、オレは息を殺して素早く近づくと、モンキーレンチで奴の頭を全力で殴打する。鈍い音のあと、甘野の短い悲鳴が聞こえた。
甘野は頭を押さえて地面を転げ回る。オレは奴の鳩尾に蹴りを入れると、そのまま馬乗りになって、何度もレンチで顔を殴りつける。鮮血と砕けた歯が路地裏に飛び散る。
お前のような人間がいるから。
お前のような犯罪者がいるから。
お前のような害虫がいるから。
不幸になる必要のない人が不幸になるんだ。
死ね。死ね。死ね。
「死ね」
オレは頭の中でそう繰り返しながら甘野の顔を全力で殴り続けた。
そのとき、不意に腹部に強い衝撃が走った。初めは殴られたのだと思った。しかし様子がおかしい。腹部がどんどん熱を帯びていく感覚がある。
殴られたような衝撃が徐々に燃えるような熱に変わり、一か所に集中してゆく。
なにが起きた? オレは自分の腹部に眼をやる。そこには銀色の棒状のものが突き立っていた。
それはナイフだった。オレは甘野に腹を刺された。
しかし、この段階でもオレはまだ甘野に刺されたということを認識できていなかった。やがて腹部を耐え難い激痛が襲う。途端に身体に力が入らなくなり、オレはうつ伏せに地面に倒れ込んだ。
暴力から解放された甘野は、よろよろと立ち上がる。暗闇の中で見えた奴の顔は、原型をとどめないほど酷く歪んでいた。
「ひ、ひぃひひぃぃい」
甘野は悲鳴とも笑い声ともつかない声を上げると、路地裏から走って逃げ出した。追撃を身構えていたオレは拍子抜けしたが、気を抜くと容赦なく痛みが襲ってくる。幸いさっき飲んだモルヒネが効いているのか、気絶するほどの痛みではなかったが、それでも動けないほどの激痛を感じる。
オレは身体に力を入れて、うつ伏せから仰向けへと体勢を変える。その動作だけでもかなりの時間がかかった。まずい、早くここから立ち去らないと。そう思えば思うほど、身体はどんどん動かなくなっていく。
「ヒロくん!」
姉さんが血相を変えて駆けてくる。
「ヒロくん、お腹刺されたの? 大変、血がたくさん出てる!」
姉さんは路地に出て大声で助けを呼ぶ。
「誰か! 誰か来てください! 怪我人がいます!」
オレは落としたレンチを拾い上げて、乱暴に尻ポケットに突っ込むと、壁を縦に這うようにして立ち上がる。
刺された時にナイフを抜いてしまうと、失血死してしまう可能性が高いと以前孝弘に聞いたことがある。オレはまず、ナイフの形状を観察する。
ナイフは市販されている折り畳み式のタイプだった。オレはナイフの柄の部分を掴むと、激痛に耐えながらそれを身体の方へ折り畳む。刺された箇所は幸いにもパーカーとジーンズの隙間だったため、ナイフをL字型に畳み、その上をパーカーで隠せば、一見してナイフが刺さっているようには見えなくなる。腹にナイフが刺さった状態で歩き回れば即通報されてしまう。警察と関わり合うのは絶対にごめんだ。
オレは左手で腹を抱くようにして傷を圧迫すると、目出し帽と手袋を外し、フードを被って路地に出る。
今いる裏路地から大通りまで約数百メートル。大通りに出たらタクシーを拾い、そのまま孝弘のアパートへ向かう。頭の中で大通りまでの最短ルートをシュミレーションするが、痛みで思考が鈍り、うまく道を思い出せない。
オレは壁にもたれかかるようにしてゆっくりと歩き出す。足はまるで枷でもはめられているかのように重く、一歩踏み出すたびに腹から血が流れだす感覚がある。急がないと本当にまずい。
ボストンバッグは路地裏に放置されたままだから、指紋や皮膚片が検出されれば甘野はきっと逮捕される。奴も相当重傷なはずだから逮捕されたとしても、どこかの病院で監視付きの治療を受けるだろう。顔は見られていないが、少なくとも今より確実に殺しにくい状況になるのは確かだった。
「くそっ」オレは唇を強く噛み締める。「仕留め損なった」
そのとき、突然視界が白い光に包まれる。眼を凝らすと、それは懐中電灯の光だった。立っていたのは二人の制服警官だった。一人は若い男。もう一人は壮年の男だった。
「こんばんわ」
若い方の制服警官が柔和な声で近づいてくる。オレは伏せていた顔を上げる。
「あれぇ、お巡りさんだあ。こんばんわぁ」
オレは咄嗟に酔っ払いの振りをした。泥酔など一度もしたことがなかったから、孝弘が泥酔しているときの姿を参考にした。
「お兄さん、お酒飲んでるの? 具合悪そうに見えたけど大丈夫?」
「ぜんぜんだいじょおぶですよぉ。まだまだ呑めますう」
腹から流れる血が、地面にぽたぽたと滴り落ちる。オレは気付かれないように血痕を踏み隠す。
「今は帰宅途中?」
「違いまあす。これから友達の家に行って、まだまだ呑むんす。お巡りさんは酒好きっすかあ?」
「うん。まあ、普通に呑むかな」
「いいっすねえ。じゃあ今度一緒に呑みにいきましょお」
警官が苦笑いで応える。やりすぎかと思ったが、酔っ払いとはこういうものだと思いなおす。とにかく全力で面倒な輩を演じて、二人には一刻も早くこの場を立ち去ってほしかった。
「ところで、さっきこのあたりで、窃盗と傷害事件があったみたいなんだけど、君、だれか怪しい人見なかったかな?」
警官の声に真剣さが宿る。やはりそのことか、オレはあらかじめ頭の中で用意していたセリフを口にする。
「いや、見てないっすねえ。さっきまで飲んでましたし。てゆうか、窃盗とかマジ許せないですね。見かけたら殺しておきまあす」
「殺すのは駄目かな。わかったありがとう。あまり呑みすぎないようにね。顔色も悪いから」
意外にあっさりと見逃してもらえそうな雰囲気を感じたオレは、心の中で安堵する。
「うっす。お巡りさんもおつかれぇっす」
オレは不審に思われないように細心の注意を払いながら、不自然に見えない最大限のスピードでその場を離れようとする。
「ちょっと待って。君、本当にお酒飲んでる?」
それまでずっと黙っていた壮年の警官が口を開いた。オレの身体は反射的に強張る。
「呑んでますよお? なんでっすか?」
オレは必死に動揺を隠しながら酔っ払いの演技を続ける。
「いや、飲んでると言ってる割に、お酒の匂いが全然しないと思ってね」
警官の訝しんだ表情が色濃くなっていく。自らの意志とは関係なく鼓動が早くなる。
「ちょっと所持品検査させてもらってもいいかな?」
若い方の警官はもういいだろうと言いたげな表情をしていたが、仕方なく上司であろう壮年の判断に従った。
「すみませんね。すぐ済むから」
「しょうがないっすねえ。すぐおわらせてくださいよぉ?」
軽口を叩いてみたが、内心はかなり焦っていた。ポケットには血まみれのモンキーレンチと手袋と目出し帽が入っていて、おまけに腹にはナイフが突き刺さっている。どうあがいても言い訳できる代物じゃない。
どうする。どうする。どうする。出血と痛みの影響で頭が回らない。
この警官たちを殴りつけて、怯んでいる隙に逃げるしかない。
確実に間違った判断だということは理解している。だけど、いまはこの方法しか思い浮かばない。顔を見られているが、背に腹はかえられない。オレはこんなところで捕まるわけにはいかない。
警官たちがすぐそこまで迫ってきている。オレは後ろ手にモンキーレンチを掴み、軸足に体重を乗せると、振りかぶろうと全身に力を入れる。
「誰か! 誰か来てください! ひったくりです! 誰か!」
静寂に包まれた住宅街に、女の絶叫が響き渡る。オレたち三人は反射的に声のした方向に顔を向ける。
二人の警官は一瞬目配せをすると、弾丸のような勢いで駆け出した。その場には、オレ一人が取り残される。
間一髪だったが、幸いにも危機は去った。全身に安堵が広がり、緊張が解かれた瞬間、激しい痛みと凄まじい重力が身体を駆け巡る。その場にへたり込みそうになるが、なんとか塀にもたれかかる状態に留める。視界が霞がかって全てがぼやけて見える。ふと見た左手は血で真っ赤に染まっていた。
「もうっ! あの人たちいくら声をかけてもずっと無視するんだもん。耳が遠いのよきっと」
姉さんは警官たちが走っていった方向を見ながら憤りの声を上げる。姉さんはオレが警官たちと話しているときも必死に助けを、オレの救助を求め続けていた。
姉さんの声は誰にも聞こえない。だって姉さんは。
「あの」
その場を立ち去ろうとしたとき、不意に背中に声がかかる。オレは背中に氷を当てられたように跳ねて振り返った。
そこに立っていたのは。
姉さんだった。
慌てて視線を前方に戻す。そこにも姉さんがいる。きょとんとした顔でこちらを見ている。また振り返る。姉さんがいる。理解が追いつかず、オレの頭は完全に真っ白になってしまう。
不意に足に力が入らなくなり、その場に膝をつきそうになったとき、二人の姉さんが優しくオレを抱き止める。
『もう大丈夫』
耳元で二人の姉さんの声が重なる。
姉さんの手がオレの身体に触れる。
オレに触れている。
なぜ姉さんの手がオレに触れているのかが理解できない。
だって姉さんは誰にも触れられない。姉さんの声は誰にも聞こえない。
なぜなら、姉さんはもういないから。
姉さんは。
もう死んでいるから。
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