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 姉さんが殺されたのは今から十三年前。  当時高校二年生だった暮網阿羅菜は学校からの帰宅途中に拉致された。遺体が発見されたのはそれから一週間後だった。  遺体は衣類を身につけておらず、土に埋められた状態で見つかった。遺体と対面した両親は〝それ〟を我が子と認識できなかった。  彼女の身体には、何度も犯され、凄惨な暴力を受けた痕があった。  眼球を潰され、性器を破壊され、腹部を刃物で三十六箇所も刺されていた。死因は失血死。致命傷は九つ。そのうち四つは腹から背中に突き抜けていた。  事件発覚から約一か月後、警察は当時十七歳の無職の少年三人を逮捕した  裁判の結果、少年たちにはそれぞれ懲役十二年、十年、六年の懲役刑の判決が下された。  姉さんの名前や顔写真が世間に公表されると、同情の声も上がったが、何故かそれ以上の激しい誹謗中傷が溢れた。それによりオレたち家族は当時住んでいた街を出ていかざるを得なかった。  当初こそ、この事件は大々的に報道されたが、犯人である少年たちに判決が下ると、お定まりに世間の関心も薄れていった。  当時九歳だったオレは、姉さんの遺体に会わせてもらえなかった。  でも、両親と警察が事件の説明ためにその場を離れた隙に、オレはこっそり霊安室に忍び込んだ。どうしても姉さんに会いたかった。  オレは恐る恐る彼女の身体にかけられていた白い布をめくった。その瞬間、感じたことのない寒気が身体を襲った。  白くて綺麗だった姉さんの肌は、無数の刺し傷と、黒々とした痣で覆われていた。いつも笑っていた姉さんの顔は腐った果実のように潰れて、ひしゃげて、どこに眼や鼻があるのかわからなかった。  あまりにも衝撃的な光景に、オレはしばらく呼吸もまばたきも忘れていた。息苦しさを感じ、慌てて呼吸をしたとき、身体は酸素を拒絶するように激しく咳込んだ。渇ききった眼からは涙が溢れ出す。信じられなかった。ヒトはこんな形になるんだ。ヒトはこんな色になるんだ。なにより、ヒトにこんなひどいことを出来る人間がいるんだ。  全部嘘だと思った。だってテレビやマンガやゲームで一度もこんなものは見たことはなかった。あそこに映る暴力が、世界の暴力の全てだと、このときは本気で信じていた。  この瞬間に、オレの人生は完璧に壊れて完全に狂った。  身体の寒気はいつまでも引かなかった。  当然だが、大人たちは誰も事件の詳細を教えてはくれなかった。だからオレはネットの情報や当時の新聞の記事を可能な限り集め、自分なりに事件の全貌を把握しようとした。事件を調べている最中、オレは何度も泣き、そして吐いた。これが本当に人間の所業なのかと現実を疑った。  犯人たちの顔と名前も調べた。松屋雄図(まつやゆうと)高里幹男(たかさとみきお)堂橋浩二(どうばしこうじ)。オレはこの三人の写真を壁に貼り付け、何度もナイフを突き立て、拳で殴りつけた。写真が穴だらけになったらまた新しいものを壁に貼り付け、そしてまたナイフを突き立てた。それを延々と繰り返した。何度も。何度も。何度も。何度も。  オレの心は徐々に怒りと復讐に蝕まれていった。気付いた時にはもう手遅れだった。オレは怒りに取り憑かれ、生きる復讐と化していた。  中学、高校の時の記憶はもう朧気だった。覚えているのは身を裂くような復讐心だけだった。  父と母は心を病み、オレが高校を卒業する年に逃げるように海外に移住した。  一緒に来るかと言われたが断った。オレにはやることがあった。  必ず奴らを一人残らず殺して姉さんの仇を取る。それだけが生きる理由になっていた。  オレはこの街に越してきて大学に入学し、毎日ノートに奴らを殺す方法を書き留めた。銃殺、絞殺、薬殺、刺殺、扼殺、圧殺、轢殺、斬殺、撲殺、焼殺。オレはノートの中で何度も奴らを殺し続けた。一年も経つとノートは三十冊にも及んでいた。オレは毎日、いつか来るであろうその日に備えてノートを書き続け、計画を練り、身体を鍛えた。  その日は突然訪れた。二十一になったばかりの頃、オレは主犯の一人である高里幹男を偶然街で見かけた。ずんぐりと太った身体に金髪の坊主頭、腕に入ったタトゥー、十代の頃と大分姿が変わっていたが、カミソリのような鋭い目つきは当時のままだった。  奴の顔を見た瞬間、奴を奴だと認識した瞬間、全身の細胞が殺意を伴って暴れ出した。その場で飛び出しそうになったが、人通りが多い場所だったため、気持ちを押し殺し、オレは人気がなくなるまで高里を尾行することにした。  大通りを歩き、電車に乗り、住宅街の路地を抜けた高里は、何の変哲もないアパートの一室に辿り着く。中から若い女性と小学生くらいの女の子が出てきた。女の子を抱き上げた奴の、吐き気がするくらい幸せそうな笑顔を見たとき、オレの心臓は不自然なほど大きく跳ねた。  路地の隙間からその様子を見ていたオレは、無意識に塀を殴りつけていた。皮膚が裂け、血が滲み出し、指がおかしな方向に曲がっても、塀を殴りつける手は止まらなかった。  なぜお前が家庭を作っている。なぜお前みたいな奴が普通の幸せを、当たり前のような態度で手にしている。お前が犯した罪は消えない。お前が奪った命は戻らない。なぜ何もなかったような顔ができる。なぜそんな笑顔ができる。なぜ、何の変哲もない生活を送っている。  ふざけるなクズ野郎。  我に返る。オレは大急ぎで自分のアパートに戻ると、この日の為に購入したナイフを手に取り、高里のアパートの前へと戻った。そして、塀の影で奴が姿を表すのを待った。その頃には陽はすっかりと暮れていた。  深夜、アパートから出てくる一つの人影があった。眼を凝らすと高里だと確認できた。遂にその時が来た。オレはナイフを取り出す。指の骨が折れて握力が弱まっていたから、その上から手ごとガムテープを巻き付けてナイフを固定する。  深く呼吸をし、意を決して足を踏み出そうとしたが、身体が動かない。ふと眼をやると足が震えていた。意志に反して、オレの身体は初めて犯す殺人に躊躇を感じ、恐怖していた。その間にも高里の姿は遠ざかってゆく。  オレは塀にしたたかに頭を打ち付け、無理矢理身体を従わせると、勢いと感情に任せてその場から飛び出す。そしてそのままナイフを構え、全力で高里めがけて突進した。  衝撃で高里は前方につんのめって転倒する。すかさずオレは奴の顔を全力で蹴り込んだ。 「んだこらあっ」立ち上がった高里はこちらに向け怒声を発する。顔からは滝のような鼻血が溢れていた。  オレは無言で高里を睨みつける。 「やんのかこらガキィ!」高里はそう叫んだとき、ようやく自身の身体に起きた変化に気付いた。 「あれ? なんだこれ。いて、いてて」  高里はそう言って両手で背中をまさぐる。その動作は壊れかけの操り人形のようで、酷く不細工で滑稽だった。奴の背部と腰部の間には刺創が出来ていた。白いTシャツに赤黒いシミが広がっていく。 「おま、まさか、刺しやがったのか?」  高里の顔は怒りと痛みで不思議な赤みを帯びていく。 「このクソガキっ、自分が何やったかわかってんのかっ!」 「お前は、自分が何をやったかわかっているのか?」 「はあ? 何言ってやがる」 「なんで殺した?」オレは絞り出すように言った。 「なんの話をしてやがる。お前ヤクでもやってんのか?」 「暮網阿羅菜のことだっ!」  オレは叫ぶ。両目からは自然と涙が溢れていた。 「誰だ?」 「お前たちが弄んで殺した女子高生だっ!」 「……ああ、あいつか」  僅かな沈黙の後、高里は状況を理解する。自分が過去に何をして、なぜこういう状況になったのかを理解する。奴の顔からはどんどん色がなくなっていく。 「お前はあいつのなんなんだ?」 「弟だ」 「そうか。悪いことをしちまったな」  高里は深刻な面持ちで謝罪を口にする。てっきり自分は悪くないと開き直るとばかり思っていたオレは呆気にとられる。 「あの子には悪いことをしちまったと思っている。度が過ぎた若気の至りだったと反省もしている。だが、俺は罪を償ったし、ムショで辛い思いもした。今は真面目に生きている」 「は?」  オレは奴の発する言葉の意味が理解できなかった。まるで別の言語を聞いているような感覚に陥る。 「俺もお前も過去を乗り越えて前に進まなきゃいけねえんだ。それに、姉ちゃんも復讐なんか望んじゃいねえだろ。俺を殺したところで姉ちゃんは戻ってこないんだぞ」  高里は、まるで聖人が諭すような、子どもに言い聞かせるような、どこか達観した柔らかな声色で言った。その顔には微笑すら浮かんでいるように見えた。  オレは吐き気を催した。 「俺にも非がある。だから今回は見逃してやる。通報もしねえ。だから、とっとと俺の前から消えろ」  高里は苦痛に歪んだ顔で言った。オレのことを許すと言った。  過去を乗り越えなければいけない? 前に進まなきゃいけない? 姉さんは復讐なんて望んでいない?  お前が。  勝手に。  決めるな。  その時オレの中で〝何か〟が切れた。  我に返ると、眼の前には高里幹男が仰向けに倒れていた。オレは肩で息をしながら高里を見下ろしていた。  奴は顔を含めた全身をめった刺しにされ、血の海の中で絶命していた。  これがオレの最初の殺人だった。  まず最初に感じのは現実感のなさだった。これをほんとに自分がやったのか、まるで実感がない。眼の前の光景が信じられなかった。しかし、手に固定されたナイフから滴っている血が、雄弁すぎるほど現実を物語っていた。よほどの力がかかったのだろう、ナイフの先端は折れて無くなっていた。  次に感じたのは虚無だった。達成感も、焦燥感も、後悔も何も感じなかった。何とか感情を掬い上げようと自分の中をくまなく捜索してみるが、結局は何の感情も見当たらなかった。  遅れてようやく恐怖が身体を包みだす。それは殺人を犯したことに対してではなく、誰かに目撃されたのではないかという恐怖だった。なにせ高里を殺している最中の記憶がないのだ。それに、今立っている路地は人通りは少ないが、誰も通らない訳ではない。誰かに見られ、通報されている可能性は決して低くはなかった。  オレはその場から全力で逃げ出した。一秒でも早くこの場所を離れたい。それ以外は何も考えられず無我夢中で走った。  どこをどう走ったのか覚えていない。いつの間にかオレは自分の住むアパートの玄関先に立っていた。  あの場所からこのアパートまでかなりの距離があったはずだ。あの距離を走ってきたのか? にわかには信じられなかったが、破裂しそうなほど脈打つ心臓と、水中から上がったときのような息苦しさが、それが事実だと裏付ける。  出し抜けに何かが気管に入り、オレは激しくむせた。  吐き出されたのは奥歯だった。それは小石のような音を立てて玄関先に転がる。遅れて口の中に鈍い痛みが広がっていく。 「高里に殴られたのか」オレは無意識に左頬を撫でながら呟いた。  突然視界が大きく歪んだ。  立っていられなくなったオレはそのまま玄関先に倒れ込んだ。何が起きたのかと思った。まさか自分も刺されたのかと身体中を確認するが、顔の傷以外に外傷はない。身体が茹でられるように熱かった。  オレの身体は高熱により完全に機能停止してしまった。そのまま丸一日は玄関からほぼ動けずにいた。二日目になりようやく少し動けるようになり、鉛のように重くなった身体を引きずりシャワーを浴び、髪や顔についた返り血を洗い流した。シャワーから出ると、ろくに身体も拭けないまま。オレはベッドに倒れ込み、そのまま意識を失った。  その後五日間。オレは熱に浮かされ続けた。  夢を見た。  姉さんが犯される夢。  姉さんが殺される夢。  オレが犯される夢。  オレが殺される夢。  姉さんがオレを犯す夢。オレが姉さんを犯す夢。姉さんがオレを殺す夢。オレが姉さんを殺す夢。  大きな穴。深い水たまり。明けない夜。人がいない街。ブレーキのない車。ピアノの音。てっぺんの見えない塔。終わらない映画。出口のない部屋。無人の演奏会。流れない涙。持ち上がる岩。堕ちてくる月。存在しない女の子。濃い青。紅い光。眠れない夢。間違った現代性。グロテスクな愛。美しい暴力。  姉さん。姉さん。姉さん。  ある日警察が家にやってきてオレを逮捕すると言う。オレは抵抗するが、あっけなくその場で射殺されてしまう。飛び起きる。またチャイムが鳴る。ドアを開けると警官が立っている。警官はいきなりオレの頭を撃ち抜く。眼が覚める。部屋の中に見知らぬ男たちがいる。男たちはオレを殴りつけ、犯し始める。オレは抵抗出来ず、何度も犯された後に刺し殺される。意識が覚醒する。  オレは部屋を飛び出す。通りに出たところでオレは車に轢き殺される。瞼が開く。公園で遊んでいた子どもたちにオレは刺し殺される。そしてまた眼覚める。  オレは、そんな覚めない悪夢のマトリョーシカの中を延々と彷徨い続けていた。  眼が覚めたとき。オレはもう夢と現実の区別がつかなくなっていた。  頭はずっと不思議な浮遊感に包まれていて、寝過ぎた身体は痺れ、関節の節々が痛んだ。  部屋の中に人の気配を感じた。反射的にその方向を見ると、そこには姉さんが立っていた。 「ヒロくん。大きくなったね」  姉さんは言った。オレは驚かなかった。まだ夢の中だと思った。  姉さんは死んでいる。もうどこにもいない。でも、ここには姉さんの懐かしい姿があった。  夢でもよかった。幻でもよかった。また、姉さんに会えたんだから。  もう熱はすっかり下がっていた。  それからオレは姉さんと過ごした。大学にも行かず、しんと静まり返った部屋で姉さんと何時間も何日もずっと話した。警察はいつまで経っても来なかった。  オレは久しぶりに笑った。きっと傍から見れば一人で何かを話して笑っている頭のおかしい奴に見えただろうけど、ここはオレと姉さんしかいなかった。  そんな日々を過ごすうちに性犯罪被害者のコミュニティ裏サイトを見つけた。姉さんを殺した主犯の一人、堂橋浩二の名前はすぐに見つかった。もう十一年前の事件なのに、そのサイトには出所した堂橋の過去の住所遍歴や現在住所、どんな事件を起こしたのかが、詳細かつ克明に記録されていた。  すっかり世間から忘れ去られていたと思っていたのに、これほどの人がまだ事件の事を覚えていてくれている。みんな堂橋に怒りの感情を抱いてくれている。ネットに溢れる匿名の声にオレの心は少し救われた。  二回目の殺人は簡単だった。オレは裏サイトに記載されていた堂橋の現住所に足を運んだ。ネットに書かれている情報だからと、鵜呑みにはしていなかったが、数十分見張っていると、本当にその部屋から堂橋浩二は姿を現した。  誰とも知らない人間に、知らないうちに監視されている。その現実にオレは戦慄した。  それからオレは堂橋を見張り続け、一日の行動を把握すると。すぐに奴が人目のないところで一人になる空白時間を見つけだした。そこからは早かった。  オレは堂橋の空白時間を狙って奴を殺した。今回は意識を飛ばしたりせずに、丁寧に奴の全身を三十六か所刺して殺した。姉さんが刺されたのと同じ数だ。  奴の死には喜びを感じられた。姉さんの仇を取ったという感覚を強く感じられた。奴の死を確認した瞬間、オレは無意識に、隣に立つ姉さんの顔を見た。きっと喜んでくれると思った。でも、姉さんの顔はオレの想像したものとは違っていた。  彼女の横顔はどこか切なげで悲しそうに見えた。オレの視線に気付くと、姉さんはぎこちない笑顔を取り繕う。 「ありがとうヒロくん」  そう言った姉さんの笑顔には、もうぎこちなさはなかった。さっき見えた横顔が見間違いだと錯覚してしまうほどにきれいな笑顔だった。オレは自分のしていることが間違っていると思いたくなくて、姉さんの横顔を忘れようとした。  それからオレは姉さんといくつもの夜を超えた。そして、いつの間にか夜ごと性犯罪者を害虫と呼び、駆除するようになっていた。誰に頼まれた訳でもない。ただそうしなくてはいけない気がした。  大学にも行き始め、人殺しとは縁遠いまともな人間に見えるように振る舞った。  駆除の際、害虫から反撃にあい、大怪我を負うこともあった。ひょんなことがきっかけで孝弘と親しくなったのもその頃だった。しかしその頃の記憶も既に朧気だ。  その内に姉さんに対する感情にも変化が生まれた。最初は純粋に嬉しかった再会も、日を追うごとに彼女の顔を見るのが辛くなっていったのだ。  たとえ幻でも、オレが姉さんをこの世界に引きずり戻してしまったのではないか、消えてしまった方が彼女にとって良いのではないか。いつからだったかそんな風に思うようになっていた。身勝手な考え方なのはわかっていたが、その考えは少しずつ、でも確実にオレの頭を侵食していった。  姉さんを消す具体的な手段も取った。その方法として手を出したのがモルヒネだった。最初の頃は、薬が効いている間だけ、姉さんは眼の前から姿を消した。しかし段々とその間隔は短くなってゆき、最近は薬を飲んでも数分で姉さんは現れる。もう効果は無いに等しかった。  姉さんは優しい笑顔でいつもそこにいた。彼女はいつでも、どんなことをしても、最後には必ずオレを肯定してくれた。それはオレの心を癒すどころか、逆に蝕んだ。  いつの間にかオレの中で姉さんの存在は、自らの無力の象徴のようになっていた。自分の無力さを見せつけられる毎日は、まるで悪夢だった。  悪夢から逃れる唯一の方法は殺人だった。クズな性犯罪者を殺すときだけ、自分は世界に存在していていいと誰かに言われているような気がした。誰かの役に立っている気になれた。無力じゃないと感じられた。だからオレは今も殺し続けている。  姉さんを殺した主犯の最後の一人、松屋雄図が今年の夏に出所する。オレは必ず奴を見つけ出し殺すだろう。それまでは何があっても捕まるわけにも、死ぬわけにもいかない。  でも、きっと松屋を殺した後も、オレは人を殺して、殺して、殺し続けるのだろう。いつか来るオレが死ぬ日まで。姉さんのために、心に癒えぬ傷を負った被害者たちのために、そして自分のために。そんな言い訳をしながら、オレは自分の行為を無理矢理肯定する。もう解くことのできない呪いだと知っているから。  どうしてこんなことを思い出すのだろう。これが走馬灯というやつか。  オレは心地よい水に浸かっているような感覚の中で思った。  額にあたたかいものが触れる。  そのときはじめて自分が眠っていたことに気付いた。  瞼が開く。身体は錆び付いてしまったように動かない。  二人の姉さんがオレの顔を覗き込む。  いや違う。  オレを覗き込む顔の一つは、姉さんではない。  現実味がないこの光景にも、感情は動かない。きっとまだオレは白昼夢のなかを彷徨っている。夢ではどんな有り得ないことだって起きる。世界は救われ、死んだ人間だって生き返り、姉さんに瓜二つな女の子だって現れる。  オレを覗き込むもう一つの顔は。  オレの額に手を置いていたのは。  都枡松子だった。  白昼夢は、まだ覚めてくれない。
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