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土曜日。午前六時四十四分
遮光カーテンの隙間から光が漏れ出し、空気中のちりがキラキラと部屋の中で踊る。
結局昨晩は一睡も出来なかった。
私はついさっき横になったばかりのソファから身を起こすと、静かにキッチンに向かい、水を飲んだ。体内に染み込む水分が、熱を持って落ち着かない気持ちを、少しだけ冷やしてくれる気がする。
私は冷蔵庫から卵を二つ取り出すと、それを熱したフライパンにゆっくり落とした。
ふとリビングに眼をやると、見慣れた自分の部屋が、どこか知らない空間のように感じられる。その理由は明白だった。
暮網先輩が私の部屋にいる。
コップをキッチンの天板に置いた私は、音もなくそのまま床に座り込んだ。
昨晩の出来事が自然に想起される。
私は大学を出た後、予約していたお店にキャンセルの電話を入れ、帰路につくため電車に乗った。しかし何となく家に帰りたくなくて、最寄り駅を過ぎてもしばらく電車に乗り続けた。
車窓から見える薄暮の近づく街は、普段の街とは違って見えた。私は適当に降りたことのない駅で電車を降りて、そこから歩いて帰ることにした。
降り立った街は何の変哲もない街だったが、不思議と心が落ち着いた。私はふと思い立ち、コンビニでお酒を買ってみる。普段こんなことはしない。でも今日はなんだかいつもと違うことをしてみたかった。なんでもいいから、少しでも気をまぎらわせたかった。
私は綺麗なレモンの写真が印刷されている缶をまじまじと眺めた後、意を決して中身を勢いよく喉に流し込んだ。あまりにも勢いよく流し込んだせいで、お酒が器官に入り、激しく咳き込んでしまう。当然味などわかるはずもなかった。
呼吸を整えると、今度はゆっくり缶を傾ける。風味が舌の上に広がっていく。初めて飲んだお酒は想像していたよりもずっと飲みやすくて、少し苦くて、そして、ほのかに甘かった。そして私は当てもなく歩き出した。しばらくの間、そのままずっとただ無心で歩き続けた。
学校をサボり、お酒を飲みながら街を歩く。ただそれだけのことなのに、どこか後ろめたいような、なにか悪いことをしているような、そんな気分になる。もちろん誰に叱られる訳でもなく、咎められることもない。でもどうしてこんな気分になるのだろう。理由はわかってる。いままでそれらの行為を一切してこなかったからだ。
私が今までしてきたことは二つだけ。一つは勉強だった。私は物心ついた時には、ずっと勉強をしていた。勉強はただ眼の前の問題を解けばいいだけのシンプルなものだ。私にはそのシンプルさがとても楽しかった。それに知識は武器になる。世の中を生きていく上で武器は多くて困ることもない。楽しくて生きる術も身につく。勉強とはかくも素晴らしいものだった。私の人生には勉強以外必要ないと思っていた。
世界は知識だけで生きていける単純なものだと思っていた。でも違った。世界はぜんぜん単純ではなかった。正確に言えば、そうではない側面もあった。それが恋だった。
恋は時間やお金もかけても必ずしも結果が出るわけではない。かけた労力が必ず報われるわけでもない。実に非効率だ。そもそも生存率を限りなく上げるために人間の本能に備わったのが恋愛本能だ。つまりこの感情は人間に予め備わっている生存本能だ。本能を理解すれば理性で押さえつけるのは簡単だと思っていた。でもうまくいかない。考えないようにしてもいつも先輩のことを考えてしまう。それが楽しくて、嬉しくて、しあわせで仕方ない。ほら、その証拠に、今だって先輩のことで頭がいっぱいだ。
そして私がしてきたことのもう一つは……。
その時、何か大きなものに身体を突き飛ばされ、私はその場にしりもちをついてしまう。中身の残った缶が鈍い音をたてて地面を跳ねる。
私にぶつかったのは男の人だった。その人は振り向きもせずに駆けていき、あっという間に視界から消えてしまった。
「なんなんですか」私は立ち上がると、おしりについた砂利をはらい、中身がほとんどこぼれてしまった缶を拾い上げる「まだ残っていたのに」
近くのリサイクルボックスに缶を放り込み、顔を上げると、いつの間にか迷路のように入り組んだ路地に入り込んでいることに気付く。空は既に夕闇に覆われていた。
「いいっすねえ。じゃあ今度一緒に呑みにいきましょお」
しばらく深い森のような暗い住宅街を彷徨っていると、突然聞き覚えのある声が耳に届く。普段よりトーンは高いが、独特のかすれた大人っぽい声。まさかと思い、声のした方へ歩を進める。
角を折れたすぐの所で三人の男の人が話をしていた。私は咄嗟に電柱の陰に身を隠した。こちらに背を向けていた二人の男の人は制服から警官だとわかった。彼らの肩越しに見えたフードをかぶった男の人、顔が見えたのは一瞬だけだったが、すぐに暮網先輩だと認識できた。
どうして先輩が警察と話をしているのだろう? 何かあったのだろうか。しかし一瞬見えた先輩の表情はかなり切羽詰まっていて、ただならない状況なのは明らかだった。
「誰か! 誰か来てください! ひったくりです! 誰か!」
私は叫んでいた。こんな時どうするべきか、と考え始める前に身体が動いていた。警官たちが慌てた様子で眼の前を駆けて行く。数秒待って電柱の陰から顔を出すと、塀にもたれかかりながら辛そうに歩を進める先輩の姿があった。その様子はまるで、何かから必死に逃げているように見えた。
「あの」
恐る恐る声をかけると、先輩は大仰にびくついて振り返った。その顔は血の気が引いて、死人みたいに真っ青だった。先輩は信じられないものを見たといったような表情できょろきょろと辺りを見回し、その場に倒れ込みそうになる。私は慌てて駆け寄り、彼を抱きとめた。
先輩は小さく震えていた。その姿は怯える子犬のようで、私より大きいその身体は、今にも消えて無くなってしまいそうなほど小さく感じられた。
手を離したら先輩はいなくなってしまう。そう感じた私は先輩を強く抱きしめた。見た目よりずっと華奢な先輩の身体が、ギュっと強張るのが伝わってくる。
「もう大丈夫」
私はそう呟く。先輩が何に怯え、何から逃げようとしているのかはわからない。でも、私は敵じゃない、あなたは独りじゃないということを伝えたかった。それしか考えていなかった。
強張った身体から力が抜けていき、やがて先輩は意識を失った。彼の全体重が私にのしかかる。倒れないように先輩の身体を支えているとき、下腹部に何か違和感を感じる。
罪悪感を感じつつ先輩のパーカーをめくると、彼の腹部には深々とナイフが刺さっていた。よく見ると先輩の黒い服は、血でべっとりと染まっている。
絶句した私は、急いで大通りへ出ると、タクシーを拾ってそのまま自分のアパートへ向かった。
それから私はある人に電話をかけた。
「う、ん……」
いつの間にか眠りに落ちかけていた意識が、先輩の声で現実に引き戻される。
私は音をたてずに近付くと、穏やかに眠る先輩の顔を覗き込み、額に手を置いた。昨晩はまるで死人のように冷たかった身体にちゃんと温もりが感じられ、自然に安堵のため息が漏れる。
まるで子どものような寝顔が愛おしくなり、そのまま額に手を置いていると、なんの前触れもなく先輩の眼が開いた。あまりに突然のことで、額から手を離す余裕もなかった。
「お、おはよう、ございます」
私は出来るだけ意識的に笑顔を作ってみたものの、顔の筋肉の張り具合から、きっとこのときの笑顔はひどく不細工だったと思う。
先輩は眼だけを動かして部屋の中を見渡す。やがて、かっと眼が開くのと同時に、弾けるように上体を起こす。そのまま慌てて部屋を出て行こうとする彼の背に私はあらかじめ用意しておいた言葉をかける。
「大丈夫です。警察は呼んでいません」
先輩はぴたりと動きを止めて、怯えるような眼でゆっくりとこちらを振り返る。
「そんなに急に動くと傷口が開いてしまいますよ」
先輩は眼を落とし、しっかりと治療が施された自らの腹部を確認する。そして、困惑した様子で顔を上げると、喉にからむ声で、なんで。と呟いた。
「先輩をこのアパートまで運んだあと、私は白井先輩に連絡をしました。状況を説明すると、白井先輩は大急ぎで駆けつけてくれて、あなたの傷の治療をしてくれました。そして、状態が安定したのを確認して、お帰りになられました。一時間前の出来事です」
「孝弘が……」先輩はそう呟くと、傷口に手を置いた。
「白井先輩から伝言があります」私は咳払いをすると、白井先輩の声色を真似て言う。「腹でも刺されてきやがれとは言ったが、本当に刺されるやつがあるか馬鹿。とりあえず傷口は縫ったから、ちゃんと傷が塞がるまで都枡ちゃんの家で大人しくしてろ、この鈍感大馬鹿野郎」だそうです」
伝言を聞いた暮網先輩はしばらくぽかんとしていたが、やがてくすくすと笑い出した。
「はは、本当にあいつに言われたみたいだよ」
先輩は一瞬、子どもみたいに無邪気な笑顔を見せる。青白かった顔には少し生気が戻っていた。
それは、彼が私に見せてくれた初めての笑顔だった。
「都枡さん。ありがとう」
先輩は少しリラックスした様子で壁に身を預けると、申し訳なさそうに言った。
「いいえ。お役にたてて嬉しいです」
先輩はその場に座り込み、所在なさを紛らわすかのように、あたりをきょろきょろとし始めた。おそらく昨晩のことをなにか話そうとしているのであろう。
「大丈夫ですよ。ここは世界一安全なシェルターです」
「え?」
私と先輩の視線が正面から交わる。彼の瞳は、ゆるやかで美しい色をしていた。初めてしっかり見る先輩の眼に、胸がどきどきする。
「ここは先輩を脅かす者は誰もいません」
「どういうこと?」
私は当惑顔の先輩に敵意を持たれないように、冷静に、柔らかい声で話すことを意識する。
「私は何も聞きません。なにも気にならないと言えば噓になります。ですが、人には誰しも秘密を抱えて生きています。その秘密は必ずしも、他人に話す必要はないと思います」
「でも」
「今、先輩に必要なのは休養です。先ずはしっかりと怪我を治すことが先決だと思います。回復したあとにお話ししたいことがあれば、そのときに伺わせていただきます」
私は背筋を伸ばし、まっすぐに先輩の眼を見据えながら言った。先輩は少しほっとしたような、でも納得がいかないといったような、色々な感情がないまぜになった表情をしている。その一連の動作から彼の誠実さが窺える。
「その申し出は正直ありがたいけど、それじゃあ、こっちに都合が良すぎるんじゃない? きみはどうしてそんなにオレに良くしてくれるの?」
「あなたのことが好きだからです。好きな人に幸せでいてほしいと思うのは、ヒトとして当然の感情だと思います」
その言葉はあまりにも自然に私の口から溢れ出ていた。このとき私のなかには、羞恥心やそれに類する感情はなかった。むしろ晴れ晴れとした気分だった。
先輩はしばらく言葉を失っていたが、やがて何かに気付いたように辺りを見回したかと思うと、不愉快そうに表情を歪める。身勝手に好意を伝えてしまったことで気分を害してしまったのだろうか。自分の軽率な行動に不安が追い付いてくる。
「あの先輩、すみませ……」
「なんだか、焦げ臭くない?」
先輩は険しい表情のままにそう言った。
「焦げ臭……ああっ!」
正座に近い体勢で座っていた私は飛び上がるように立ち上がると、キッチンのへと駆け出した。そこには炭状になったものがフライパンの中で息絶えていた。
「ああ、またやってしまいました」
「どうしたの?」
落胆する私の背後に先輩の声がかかる。本当は見られる前に証拠を隠滅したかったが、そんな時間はなかった。
「なにこれ?」先輩は怪訝な顔をする。
「卵……だったものです」
「卵? 料理でもしていたの?」
「はい。あの、白井先輩が、その、さすがに輸血パックは用意できなかったとかで、暮網先輩は血を流しすぎたから、起きたらとりあえずなにか食べさせてやれって。食べて血を作れって」
「なにを作ってたの?」
「目玉焼きです」
「目玉焼き……」
先輩はしばらく目玉焼きになる予定だった炭を見つめていた。私は居た堪れない気持ちになってくる。
「都枡さんて、料理苦手なの?」
「はい。お恥ずかしながら。みんな焦がしてしまうんです。お料理って難しいですね」
「いつも食事はどうしてるの?」
「コンビニか、スーパーのお惣菜か、あとはファミレスです」
想いを伝えたときより、こちらの告白の方がずっと恥ずかしかった。先日読み漁った雑誌にも、料理のできない女は敬遠されやすいと書いてあった。きっと嫌われたに違いない。私は心の中でがっくりと肩を落とす。
「ふうん。ちょっとごめんね」
先輩は焦げ付いたフライパンをさっと洗うと、手慣れた手つきで、あっという間にオムレツを作ってくれた。先輩が調理をしている姿は、まるで舞のように綺麗だった。
「二人分作っちゃったけど、都枡さん、食べるよね?」
「え? あ、はい。いただきます」
先輩に見惚れていた私は、呼びかけられて我に返る。
「あの、先輩。これは」
「え?」
私の視線を追って先輩はお皿に視線を落とす。オムレツにはケチャップでネコの絵が描いてあった。無意識での行動だということを認識した彼の顔は、みるみるうちに赤く染まっていった。
「ごめん。いつもの癖で描いちゃった」
先輩は手で口元を覆い、とても恥ずかしそうに言った。その仕草のあまりの可愛らしさに私は思わず吹き出してしまう。
「いいえ。とても可愛いネコさんです。ありがとうございます」
先輩の謎が一つ解けたと同時に、彼に一歩近づけたようで私は嬉しくなる。
私たちは食卓代わりのローテーブルに向かい合わせに座った。
「いただきます」私は両手を合わせると、ふわふわのオムレツを口に運んだ。途端、身体の熱が急上昇するのを感じる。
「美味しっ、とても美味しいです」
「そう? 久しぶりだったから、うまく出来たみたいでよかったよ」
先輩は、ほっとしたように表情をゆるめた。
「なんでこんな美味しいんですか?」
「卵液をザルで漉すことと、塩こしょうでしっかりと下味をつけることが大事なポイントかな」
「先輩はお料理が好きなのですね」
「なんでそう思うの?」
「だって、お料理しているときの先輩の顔、とてもキラキラしていましたから」
「実は昔、料理人になることが夢だったんだ」
先輩は照れくさそうに言った。
「今は違うんですか?」
「今は……ほかにやることがあるから」
先輩はそのまま黙り込んでオムレツを機械的に口に運ぶ。彼の顔に重い影が落ちる。その、どこか辛そうな顔を見て、私は声をかけることができなかった。
「そろそろ帰るよ」
私が食器を洗い終えるのと同時に、先輩はそう言った。
「私はいつまでもいてもらっても構いませんが」
むしろ嬉しいです。という言葉は口には出さずに、なんとか飲み込んだ。
「さすがに女の子の家にずっと居座るわけにはいかないよ」
「そうですか。わかりました」
彼なりの礼儀なのだろう。私はそれ以上引き留めることはしなかった。
玄関で靴を履いた先輩は、改めて申し訳なさそうに頭を下げた。
「今回は本当にありがとう。それに昨日は食事の誘い、断っちゃってごめんね」
「いえ、こちらも急にお誘いしてしまって申し訳ありませんでした」
「改めてお礼をしたいんだけど、よかったら連絡先教えてくれないかな?」
「よろこんで。あの……では」
「どうしたの?」
「早速ですが、一つお願いをしてもいいですか?」
「なに?」
「また、お料理を作ってくれませんか? その、先輩のお料理、とっても美味しかったので」
「いいよ。なら今度弁当でも作ろうか」
「いいですね。白井先輩と美紗貴ちゃんも誘って、四人で食べましょう」
「苦手な食べ物とかある?」
「挽き肉が少し苦手です」
「わかった。じゃあ挽き肉は入れないようにするね」
「ありがとうございます。楽しみにしてます」
「うん」
「あ、そうだ」
私は部屋の奥へ戻ると、あるものを持って玄関に戻った。
「これ、どうしますか?」
見せるかどうか迷ったが、私はジップロックに入った血まみれのナイフを先輩に差し出す。時間が経過し、赤かった血は酸化して黒く変化していた。
「指紋とか付いているかもしれないので、迷ったんですけど、そのままにしておきました」
「嫌なもの見せてごめん」
先輩は曇った表情でジップロックを受け取ると、すぐに私に見えないようにポケットにしまう。こんなに優しいのにどうしてこんな酷い怪我をしなくてはいけないんだろう。口から何か言葉が出かかったが、それをぐっと飲み込んだ。何も聞かないって決めたのだから。
「じゃあ、もう行くね」
先輩はそう言い。ドアの鍵を開ける。
「気を付けてお帰り下さい。最近このあたりで行方不明事件が多発してるみたいなので」
「ありがとう。都桝さんも戸締りしっかりね」
先輩はそれだけ言うと、まるで逃げるように部屋を後にする。本当は外まで見送りたかったけど、それはきっと彼が嫌がるだろうと思い、私はその場に留まった。そして静かにドアのカギを閉める。
私は沈黙が落ちる部屋の中を見まわした。
先輩と食事をしたテーブルや、数時間前まで先輩が寝ていたベッドからは既に現実感が失われている。
昨晩起きた出来事も、ついさっき起きた出来事もまるで信じられない。誰かに耳元で、全てが夢だよ、と言われてもすぐに信じてしまいそうだった。
不意に手の中におさまっていたスマホに眼を向ける。そこには先輩の連絡先が表示されていた。それだけが、今の私に起きた現実だと唯一認識できた。
極限まで張り詰めていた気が一気に解けたのか、急激な眠気に襲われた私は、そのまま床に倒れ込む。毛布を掴むと、最後の力を振り絞ってそれにくるまった。
いま眠ったら、夢の中で先輩に会えるだろうか。
そんなことを考えながら、私は眼を閉じる。
しあわせな夢を願いながら。
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