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 画面に映る商品名、請求額、届け先住所にもう一度眼を通してから購入ボタンをタップする。次の瞬間には、ご注文ありがとうございます。という文字が表示される。  すぐにスマホが振動し、新たなメッセージの受信を知らせる。画面を開くと、商品の詳細が記載されている。商品名の欄には『セクシーヌーディブラジャー&フルバックショーツ』の文字があった。  すかさず、もう何度も見た商品ページを開き、レビューを眺める。 『デザインが可愛くて履きやすいのがお気に入りです』 『セクシーさに惹かれて購入しました。レースとヌーディ感がとっても綺麗で大満足です』 『レースの透け感もいいし、胸もかなり盛れます。なにより可愛い』  眼は画面を流れてゆく文字列を眺めているが、頭では別のことを考えていた。  先輩に相談したあの日から二週間近くが経った。  あれから先輩は本当に毎日、それこそ四六時中私と一緒にいてくれた。  朝は家まで迎えに来てくれて、駅の途中のコーヒーショップで朝食を摂り、大学に向かい、それぞれの講義を受ける。帰りは構内で待ち合わせをし、一緒に夕食を摂り、家まで送ってくれる。それがルーティンとなりつつある。  つい先日までは夢にも思わなかった日々が日常になってゆく。この間は初めて一緒に居酒屋に行った。そこは沖縄料理が売りの居酒屋だった。先輩はお酒があまり強くないらしく、ジョッキ一杯で顔が真っ赤になっていて可愛かった。憧れだったクレープも一緒に食べた。二人で過ごす時間が増えていくにつれて、先輩の新しい面を知ってゆく。不謹慎かもしれないが私は毎日幸せを感じていた。  しかし、この少し特殊な関係性ということもあり、恋愛的な意味での関係は、これっぽっちも進展しなかった。一度道端から猫が飛び出してきたとき、驚いて先輩に抱きついてしまったことがある。近くで感じる先輩の体温に、私はとてもどきどきしたが、彼は微動だにせず、ただ歩き去っていく猫を眺めているだけだった。  先輩にとって私は庇護対象以外の何者でもないのだろう。ただ一緒にいられる、それだけで十分な筈だった。ついこの間までは話すことすらできず、遠巻きに眺めているだけだったのだから。でも、それが叶った途端、次を求めてしまう。その先を望んでしまう。目的の場所へ勇み足で向かいそうになってしまう。これは人間が感じる標準的な心理効果だ。だけど、いまはそんな当たり前の感情を直視するのも嫌になる。  それでも心は止められない。本能を理性で押さえつけることができない。  本当は手を繋いでみたい。キスだってしてみたい。 「先輩が望むのならその先だって……」  そう口に出したとき、私は自然にスマホを開き、通販サイトのページを開いていた。そして、いつの間にか勢いに任せて下着を購入していた。 「ほんとに買っちゃった」私は呟いた。 「買っちゃった、買っちゃった、買っちゃった」  なんだかいたたまれない気持ちになった私は、スマホをベッドの上に放り投げると、近くにあったクッションを抱き、足をばたつかせた。  しかし不意に心臓を細い針で刺されるような痛みが走る。痛みは不安となり、のぼせあがった頭と身体を急激に冷やしてゆく。  理由は明白だった。先輩が一緒にいてくれているとはいえ、ストーカーの恐怖は毎日ついて回る。近頃、あの男の姿を見かける頻度が多くなっている気がする。  大抵は人通りの多い場所だった。あの男はいつも数十メートル離れた場所から薄ら笑いを浮かべ、じっとこちらを見ていた。先輩が近付くと、いつの間にか雑踏にまぎれて姿を消している。こんな状況が、先輩と一緒にいるようになっても、ずっと続いている。  今のところ危害を加えられたわけでも、具体的な被害を受けたわけでもない。しかし、あの瞬きをしない不気味な眼が、感情が感じられない薄ら笑いが、頭にこびりついて離れない。  もし、先輩になにかあったら。  背筋に怖気が走り、クッションを抱く力が自然と強くなる。  いきなり頭の中に音楽が鳴り響き、口から心臓が飛び出そうなほどびっくりする。流れ続けているのは電話の着信音だった。そういえば勉強の為にイヤホンをつけたままだった。画面を確認すると、先輩からの着信だった。私は少し音量を絞り、応答ボタンをタップする。  通話口にあたるイヤホンからは、ゲホゲホと濁った咳が聞こえてきた。しばらく咳が続いたあと、先輩がしんどそうに言葉を発する。 「ごめん都桝さん。いま大丈夫?」 「はい。先輩こそ、お身体の具合はいかがですか?」 「平気。と、言いたいところだけど、流石にちょっとしんどい」  そう言うと先輩はまた苦しそうに咳込んだ。  先日、先輩に送ってもらっている最中に雨が降り出した。ちょうど駅とアパートの中間地点を歩いていた私たちは、すぐ止むだろうと考え、そのまま目的地へと歩を進めた。しかし雨足はどんどん激しさを増し、アパートに着くころには、篠突く雨になっていた。当然ながら私たちはびしょ濡れになった。  私は雨が止むまで寄っていってはどうかと提案したが、先輩は大丈夫と言い、そのまま傘も持たずに帰ってしまった。そして今日の朝、先輩から高熱が出てしまったとの連絡が来た。 「今日は、ほんとにごめん」  先輩のくぐもった声が申し訳なさそうに耳元でささやく。 「帰宅したあと、ちゃんと身体は乾かしたんですか?」 「もちろん」 「本当ですか?」 「……最近あたたかくなってきたから、ちょっとなら大丈夫かと思って、あまり乾かさなかったかも」  気まずそうに先輩は言う。  私は大仰に芝居がかったため息をつく。「まったくもう、体調管理はしっかりしてくださいね。先輩は私を護ってくれるナイトさまなんですから」 「申し訳ない。それにしても、ナイトさまって……」 「私も自分で言って恥ずかしくなりました」  堪えきれないといった様子で先輩が噴き出す。私もつられて笑ってしまう。  立場を弁えない稚拙な物言いということはもちろん自覚していた。でも、あえてそんな態度をとった。判を押したような心配の言葉をいくら投げかけても、先輩は罪悪感を募らせ、私を気遣うだろう。なら少しでも彼の心が楽になるように、苦手な冗談も口に出す。  でもきっと先輩は気付いている。これが私の薄っぺらな自己満足だということをわかっている。それを承知で笑ってくれている。先輩はそんな優しい人だ。 「今日は何してたの?」  先輩が穏やかな声で言う。 「えっと、今日は」私はローテーブルに広がったノートや参考書を一瞥する。「お勉強をしていました」 「一日中勉強してたの?」 「いえ、たまに休憩をとったりして……そうだ、以前先輩と行ったファミレスのことを思い出していました」 「ファミレス? それは、都枡さんがストーカーのことを相談してきた、あの日のこと?」 「はい。あの日は、私の人生で一番楽しい日でした。きっとこの先なにがあっても、私はあの日のことをしつこく思い出します。それほど幸せな時間でした」 「大袈裟だよ。ファミレスなんて、またいつでも行けるでしょ」 「……そうですね」 「ところで、ごはんはもう食べたの?」 「いえ、朝からなにも食べてなかったので、さっきフードデリバリーを注文しました。あ、ちゃんと配達員は女性を選択しました」 「そっか。何を注文したの?」 「ゴーヤーチャンプルーです。先輩が好きって言ってたので」 「いいなあ。オレも食べたい。あの苦味が恋しいよ」 「元気になったら、また食べにいきましょう。この間行った、先輩お気に入りの沖縄料理の居酒屋さん、お酒もお料理も本当に美味しかったです」 「そうだね」 「たしか、ご家族で沖縄旅行に行った際に食べたゴーヤーチャンプルーがとても美味しくて好きになったんでしたよね?」 「そうそう。あれは本当に美味しかったし、あの旅行は本当に楽しかったな……」 「いつかまた行けたらいいですね」 「そうだね」 「先輩って車の免許持っていますか?」 「持ってるよ。なんで?」 「私も持ってるので。一緒に行ったら、運転交代しながら旅行できますね」 「うん」 「あと、旅行の定番、京都は外せませんね。いっそのこと京都を経由して、沖縄に向かう贅沢旅行なんていうのもいいですよね。想像するだけで楽しいです」 「うん。そうだね。楽しそうだ」  先輩の声は明るかったが、どこか寂しげな響きを帯びたように感じた。 「あの、先輩」 「なに?」 「お見舞いに行きたいです」 「駄目だよ」  朝、先輩から連絡があった際に、お見舞いに行きたいと真っ先に提案した。けれど、当然ながら、一人で出歩くのは危ないと断られてしまっていた。 「わかってます。言ってみただけです」  私はぷっと膨れてみせる。それが伝わったのか、先輩が力なく微笑したのを電話越しに感じる。 「……あのさ、都枡さん」  先輩の声が少し緊張感を帯びた硬質な雰囲気を纏った気がした。 「はい?」  私の呼びかけに先輩は応えない。奇妙な重苦しい沈黙がしばらく続いた。 「あの、先輩? どうしたんですか?」 「……オレさ、実は……うわっ」  ゴトンと、何か硬いものが床にぶつかる音がする。 「先輩? 大丈夫ですか?」 「ああ、ごめん、大丈夫。ちょっと電源タップにつまずいて転んじゃった。……あれ?」 「どうかしましたか?」 「いや、今つまずいたコンセントタップなんだけど、買った覚えがないんだよな」 「ああ。私にも経験があります。そういうのって気付かぬうちに増えていってしまうんですよね」 「たしかに。必需品とかだとありがちだよね。やっぱり気のせいか」 「ところで先輩、さっき何を言いかけたのですか?」 「え、ああ、ええと……いや、今日は本当にごめんね」  先輩は急に歯切れの悪い物言いになる。どうしたのだろう? 「全然大丈夫ですよ。きっと疲れが出たんです。先輩はいつも獲物を探す猛獣のような眼をしていましたから」 「それはごめんね。気を付けてはいるんだけど、怖がらせちゃってるかな?」 「いいえ。いつも頼もしいです」 「それはよかった。じゃあ、そろそろ切るね。勉強の邪魔しちゃってごめん」 「しっかり休んでください。そしてまた護ってください」 「ナイトさまだからね」 「まだ言いますか」  私たちはまた笑いあう。先輩と話していると、胸を満たしていた憂鬱な気持ちが晴れていく。このままずっと話していたい。しかし先輩の体調のことを考えると、その想いを口には出せなかった。 「ちょっと横になるね。じゃあ、またね」 「はい。おやすみなさい」  電話が切れる。部屋の中に静寂が戻った。   私はそのまま画面をタップし、注文したフードデリバリーの位置情報を調べた。  画面に地図が表示され、指定した女性配達員の顔写真と、ご注文の品がまもなく届きます、の文字が表示された。私は机の上に散らばるペンやノート、参考書などを片付け始める。  ふとカーテンの隙間から外を見ると、雨が降り始めていた。私は配達員に罪悪感を感じつつ、片づけを進める。本棚に参考書をおさめたとき、ちょうどチャイムが鳴った。玄関に向かい、ドアスコープを覗くと、配達カバンを背負い、キャップを被った女性配達員の姿があった。  チェーンを外してドアノブに触れたとき、ドアに奇妙な重みを感じた。  ドアを開けた瞬間、女性配達員の身体が、まるで糸の切れた人形のように倒れ込んできた。サイクルウェアを着た彼女の身体は、鈍い音をたてて玄関に転がった。その背中には、深々と包丁が刺さっていた。  アパートの通路には配達カバンが転がっている。彼女の背中から流れ出た血が、ゆっくりと床に広がっていく。絶命しているのは明らかだった。私は呆然としてその場に立ち尽くしてしまう。  視界の端に人影を捉えた。反射的に顔を上げると、そこには男が立っていた。  薄笑いを浮かべて私を見下ろすのは。  私をいつも見ていた、あの男だった。  知覚できる空間のすべてが無音に感じられる。降りしきる雨の音も、今は耳に届かない。
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