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6.5
雨粒が建物を叩き続ける音が、耳の奥でずっと鳴っている。
灯の落ちた室内。オレはベッドに横たわり、薄暗闇にぼんやり浮かび上がる天井を眺めていた。治りかけの腹の傷がずくずくと痛む。
「ダッセえ」
オレは力無く呟く。
ダサすぎる。彼女のことを護るって決めたのに、なに大風邪なんかひいて動けなくなってるんだ。自己管理が出来ていないにも程がある。
恥ずかしさと、悔しさと、情けなさに耐えられなくなり、オレは両手で顔を覆う。
「松子ちゃんも言ってたじゃん。疲れが出たんだよ。ヒロくんとっても張り切ってたもんね」
両手で頬杖をついた姉さんが枕元で笑いを堪えるような声色で言う。
「まあ、完全に空回りしちゃってる感はあるけどね」
姉さんは弾けるようにけらけらと笑い出す。彼女の声が頭の中で何度も反響する。オレは両耳をふさぐが、なんの意味もない。
それにしてもさっきは危なかった。オレは熱に浮かされて、無意識にとんでもないことを口走ろうとした。あろうことか、オレは都桝さんに殺人の告白をするところだった。電源タップにつまずいていなかったら、きっと口に出してしまっていただろう。
「落ち着かなくて、部屋の中をうろうろ歩き回って、あまつさえ転んじゃって。全くかわいいんだから」
姉さんは再び腹を抱えて笑い出す。オレは姉さんに向けてスマホを投げつけるが、スマホは彼女の身体をすり抜け、硬い音を立てて壁にぶつかり、虚しく床に転がった。
都桝さんと一緒に行動するようになって、彼女のことを少しずつ知っていった。彼女は物静かで知的。そしてひとつひとつの所作や言葉選びが丁寧で綺麗だった。緊張していた態度も徐々に解けてきて、最近ではよく笑い、冗談まで言うようになった。ありていに言えば、心を開いてくれていると感じることが多くなった。オレはそんな彼女の態度に甘えようとした。
体調を崩した影響で心が弱っていたのか、オレは殺人を告白し、心の重荷を下ろそうとした。罪の重さに耐えかねて、無意識に助けを求め、共感を求め、赦しを乞おうとした。彼女に必要のない重荷を背負わせようとした。
それでもいい。それでも貴方が好きと言ってもらいたかった。そんな自己満足が欲しかった。本当に、気色悪い。
叫び出したいほどの自己嫌悪の後に、冷静な思考が覆いかぶさってくる。
本当は後悔しているのだろうか。頭でいくら否定しても、深層心理が人殺しの事実を否定しているのだろうか。答えが出ない様々な感情が頭の中でぐるぐると掻き混ぜられ、また気分が悪くなってくる。
オレは枕もとに置いてあったピルケースを倒し、こぼれた大量のモルヒネと睡眠薬を掴むと、それらを乱暴に口に押し込んだ。
考えたところで答えは出ないし、なにかを告白したところで、人殺しの事実は変わらない。オレは無理矢理意識をシャットダウンするために、かたく眼を閉じて体内に意識を集中させる。空っぽの胃の中で薬が溶け出していく感覚がある。
そのうち薬が効いてきたのか、鉛のように重かった身体は徐々に浮遊感に包まれ、意識がまどろんでくる。瞼の裏には様々な情景が水に映る景色のように、ぼんやりと浮かんでは消えていく。
甘野に刺されたあの日から人を殺していない。それどころかスマホで性犯罪者裏サイトを覗く回数も減っていた。それよりも優先するべきことができたからだ。でも、害虫は駆除しても駆除しても次々と湧いてくる。いまこの瞬間にも害虫は世に蔓延っている。その現実に焦りを感じないと言ったら嘘になる。
そんなとき、あのストーカーの顔が思い浮かぶ。いつも数メートル先から眼を見開き、薄笑いを浮かべて都桝さんをじっと眺めている。こちらが近づくと人込みにまぎれ、いつの間にか姿を消している。煙のようで気味の悪い男だった。
あいつの顔に見覚えがある気がするのに、どうしても思い出せない。数年遡って過去の犯罪者も調べてみたが、該当する者はいなかった。あの男はいったい誰なんだ。
意識が徐々に眠りに落ちていく感覚がある。身体がこのままベッドの底の、その下まで沈んでいきそうだった。男の顔が霞に覆われ始める。
さっきの都枡さんとの会話を思い出す。旅行なんてもう十年以上も行っていない。この件が片付いたら行ってみてもいいかもしれない。一人でもいいし、都枡さんを誘ってみてもいい。きっと彼女は喜んで付いてきてくれるだろう。京都と沖縄。沖縄。京都。京都。京都。
意識が消える瞬間、唐突に一つの名前が思い浮かんだ。それを認識した瞬間、オレの身体はベッドから跳ね起きる。
オレは転がり落ちるようにベッドから飛び出すと、床に落ちているスマホを拾い、ネットの検索窓にその名前を打ち込んだ。
一九九十年、四月十七日、午後十一時二十分頃、京都市右京区で当時十六歳の少女が塾の帰りに何者かに連れ去られ、八時間後に桂川で遺体が発見された。
司法解剖の結果、少女の死因は窒息死。服装はそのままだったが、強姦された形跡と、顔には殴られた痕があり、前歯には犯人のものと思われる血液と皮膚片が少量付着していた。
犯行は夜中で、目撃者もなく、捜査は難航を極めたが、同年七月二十二日、事件発生当時に現場近くのスーパーの駐車場に止めた車の中で寝ていた、当時二十歳の専門学生の男が、右京警察署で任意の事情聴取を受ける。被害者の歯に残った血液や皮膚片のDNA型が男のものと一致し、男は七月二十四日に強姦致死傷罪容疑及び、死体遺棄と未成年者略取容疑で逮捕された。
初公判が開かれ、被告の男はDNA鑑定結果の虚偽を訴え、無罪を主張したが、裁判長は検察側の求刑通りに無期懲役を宣告。被告側が判決を不服として大阪高裁へ控訴した。
翌年の控訴審では裁判長は一審を支持して被告の控訴を棄却し、無期懲役が確定する。
オレは当時のニュース映像を検索する。画面に映し出されたのは、男が逮捕、移送されてゆく姿だった。それを見たとき、背筋に怖気が走った。
そこに映っていたのは、紛れもなくあの男だった。三十年以上前の映像だったため、かなり若かったが、瞬きをしないぎょろっとした瞳、気味の悪い薄笑いは全く変わっていない。
男の名前が画面上に表示される。そこには〝尾寺リョウキ〟とあった。オレが打ち込んだ名前だ。
「まさか」
出所していたのか、と、言葉が口から出るより先に、オレは着の身着のまま、傘も持たずに雨の中へ駆け出していた。駅へ向かう間に都枡さんに電話をかけるが、呼び出し音が続くばかりで一向に繋がる気配がない。嫌な予感だけが胸の中でどんどん膨れ上がっていく。
太く重い雨粒が身体中にぶつかる。その痛みを利用して蕩けかけていた意識を通常状態に保とうとする。
無期懲役とはいえ、一生刑務所から出られない訳ではない。中には仮釈放が認められた例もある。しかし、仮に出所出来たとしても、自由になれるのではなく、必ず国の監視下に置かれる。それでも四六時中常に監視されてはいない。
尾寺が現れる日が不定期だったのは、保護観察官の眼が届いていない時間帯を選んでの行動だったに違いない。それに現時点で都枡さんに直接的な被害も出ていない。この程度では警察が動かないということも奴は把握している。奴はずっと都枡さんを見ていた。自分が自由に動ける時間帯に彼女が一人になる時を、ずっと辛抱強く待っていた。今までは全て、いつか訪れるその時のための前準備だった。もし今日がその日だったら。そんな思いが頭をよぎる。
杞憂であってくれ。オレは心からそう願いながら彼女に電話をかけ続けるが、電話はいつまで経っても繋がらない。
オレは電車に飛び乗った。周りの乗客が一斉に奇異な眼を向けてくる。そこでオレは、自分がひどくずぶ濡れであることに気付いた。しかし、傘を持たずに外出した只の馬鹿だとでも思われたのか、乗客の視線はすぐに各々の営みに戻っていった。
上がった息をゆっくりと整える。意識を保ててるからといって、身体の中から薬が消えた訳ではない。油断すると意識が飛んでしまいそうになる。彼女が住む街はここから二駅先だ。たった二駅やけに遠く感じる。オレはほどけかけた靴ひもを結び直して気を紛らわした。
彼女に何度かメッセージを送ってみるが返信はない。拒んでも頭が勝手に最悪の事態を予想する。嫌でも姉さんの事件を思い出してしまう。
オレは家を出るとき咄嗟に手に取ったナイフを、ポケットの上から握りしめる。オレの腹を刺したあのナイフ。使う機会がないことを願うが、備えておくことに越したことはない。
電車が目当ての駅のホームに滑り込む。ドアが開くと同時に、オレはまた雨の中を駆け出した。家を出た時より雨足は弱まっていたが、まだ本降りと言っていい勢いだった。
五分もかからず彼女のアパートに到着すると、オレは何度もインターホンを押した。反応はない。
全力で走ったからか、耳の中でキーンと音が鳴っている。吐き気もする。酷く気分が悪い。
もう一度インターホンを押そうとしたが、嫌な予感が拭いきれないオレは、強く扉を叩いて彼女の名前を呼んだ。
「都枡さん。都枡さんっ、松子!」
それでも、扉の向こうからは、物音ひとつ聞こえてこない。無意識にドアノブに手をかけ、力任せに引くと、ドアはなんの抵抗もなく驚くほど簡単に開いた。
オレはナイフを手にすると、ゆっくりと扉を開く。部屋の中は真っ暗だった。少し迷ってから部屋の中に足を踏み入れ、室内灯のスイッチに手を伸ばした。
部屋の中は綺麗に片付いていた。整頓された本棚。埃一つない床。スマホだけ置かれているテーブル。荒らされた様子や、誰かが侵入したような形跡は一切なかった。
スマホを置いてちょっとどこかに出かけている可能性もなくはない。しかし鍵をかけていないのはおかしい。そんなことを考えながら室内を見回すと、玄関付近に妙なものを見つける。
靴脱ぎ場の隅にぽつぽつとある赤黒い点々。それは、まだ乾いていない真新しい血痕だった。予感が確信に変わりつつある。間違いなくこの部屋で何かが起こった。そしてそれは、尾寺リョウキの仕業である可能性が高い。状況と証拠が揃いすぎている。
オレが体調を崩したばかりにこのような状況を作り出してしまった。いますぐに持ってるナイフで自らの喉を掻き切りたかったが、それは今やるべきことじゃない。
オレは自分への怒りを尾寺へと向ける。奴は人間ではない。害虫だ。害虫は駆除しなければ沢山の不幸や涙を生む。オレは尾寺を殺す。一切の躊躇や慈悲を持たず。ただ踏み潰す。
心がもはや慣れ親しんだ冷たい殺意に浸っていくのが分かる。それにより混乱していた思考も、徐々にクリアになってくる。
そうだ、オレがやるべきことも、出来ることも、結局たった一つだけだ。
オレは尾寺リョウキを見つけ出し、苦しめて殺す。たとえ今回の件に無関係だったとしても、奴は性犯罪者だ。殺したところでさしたる問題もない。死んだところで誰も困らない。
ナイフをポケットにしまうのと同時にスマホを取り出すと、久方ぶりに性犯罪者裏サイトにアクセスする。目当ての情報はすぐに見つかった。画面に表示されたのは、尾寺リョウキの現住所だった。
人々は真面目で勤勉だ。日々自らを律して、様々な欲望に折り合いをつけながら、毎日を懸命に生きている。でも、根っからの善人なんて存在しない。だから人は正義の名のもとに匿名で悪人を監視し、つるし上げ、憂さを晴らす。自分はしない、出来ないけれど、誰かがなにか行動を起こしてくれることを、誰かが世の中を今より良くしてくれることを信じて、人々は今日も小さな罪を犯す。しかし、それで救われる命があるのもまた事実だ。オレはこの掲示板を利用し、情報を書き込む人たちを責められないし、そんな権利もない。
尾寺は都外に住んでいた。電車を乗り継げば一時間ほどで着く距離だ。
オレは玄関から傘を拝借し、部屋を出ると、再び駅に向かい、電車に乗った。雨のたそがれ時の景色が、矢のように通り過ぎてゆく。日没が近い。
オレはシートに腰を下ろす。じっとしていると薬が血液中に取り込まれ、宙に浮いているような浮遊感が強くなっていく。
頭の中を、理性も本能もない、ただの剥き出しの感情が流れていく。もしかしたら、このまま人を殺さない日々の中で生きていけるのかもしれないと思っていた。普通に起き、普通に大学に通い、普通にアルバイトをし、就職をして、普通に恋愛や結婚をし、仄かな将来の不安に怯え、それでも普通に眠り、普通に退屈で、そこそこ幸せな人生を生きていく。そんな普通の人生が手に入るかもしれないと思っていた。
でも、そんなことはあり得なかった。オレの人生は、姉さんが殺されたあの日から、死に支配されてしまった。人を殺してしまった人間は苦しみながら地獄に堕ちるべきだ。もちろんオレも例外ではない。オレはもう普通にはなれない。普通を望んではいけない。彼女に抱きつつあったこの気持ちも、一生口に出すことはないだろう。
前髪から滴る雨粒が両眼に入る。まばたきの後、それはあたたかい水滴となり、頬を流れ落ちる。
いまはただ彼女が無事でいてほしい。そう強く願った。
電車の揺れがゆりかごみたいだ。心地良さを感じ、一瞬だけ眼を閉じる。
「ねえ」
と向かい側から声をかけられた。眼を開けると、そこには姉さんが座っている。まばらにいた乗客はすべて消えていた。電車内にはオレと姉さんの二人だけしかいなかった。
「松子ちゃん、無事だといいね」
うん。
「きっと大丈夫だよ。ヒロ君はナイトさまなんだから」
うん。
「彼女が大事?」
うん。
「彼女のことが好き?」
それは……。
「自分の気持ちがわからない?」
うん。
「ほんとはわかってる筈だよ?」
え?
「なんとも思っていない人に対して、そんなに悩んだりしないよ」
……そっか。そうなんだ。
「彼女に伝えたいことがあるんだね」
うん。
「言いたいことは言えるときにね。死んじゃったら、二度と想いを伝えることはできないからね」
うん。
「ヒロ君は、私が死んじゃったあとの方が優しいからね。どうせなら生きてるうちに優しくしてほしかったよ」
ごめんね。
「ほんとだよー。ヒロ君たら年齢一桁台のくせに、お姉ちゃんにツンケンしちゃってさ。反抗期早すぎって思ったもん」
ごめんって。
「うーん、許す」
姉さんは歯を見せてにっと笑う。つられてオレも少し笑った。
もし姉さんが生きていたら、これが当たり前の日常として存在したのだろうか。いまとなっては確かめるすべもない。
「はあ、もっとヒロくんと生きていたかったな」
姉さんはシートにもたれかかり、流れる景色を見ながら呟いた。そして、眠るようにそっと眼を閉じた。
駅名を告げる車内アナウンスで眼が開く。気付けば目的の駅に到着していた。随分と長く眼を閉じていたようだ。
改札を出たとき、陽はもうすっかりと落ちていた。雨のせいか、時間帯のせいか、駅前は閑散としていた。その方が都合がいい。出来るだけ人に姿を見られたくはない。
降りしきる雨の中、オレは尾寺の家に向かう。都心から離れたベッドタウンだからだろうか、駅前を離れ、商店街を抜けると、あっという間に一切の人気はなくなった。
二十分かけてようやくオレは目的地に到着する。尾寺が住んでいたのは古い木造アパートだった。部屋の前まで来ると、躊躇なく木製のドアを蹴り破った。人の気配はなかった。辺りを警戒しながら部屋の灯を点けた瞬間、全身の血液が逆流しそうなほどの衝撃を受ける。
壁や窓を覆いつくす夥しい量の写真。被写体は全て都桝さんだった。そのどれもが遠くから望遠で撮られていて、盗撮なのは明らかだった。写真は破られているものから、ふやけているもの、刃物で突き刺されているものまで様々で、尾寺がどれほど彼女に執着しているかがわかる。腰より低い位置に貼られている写真には、粘度のある白濁色の液体が飛び散っていた。
気持ち悪い。不愉快だ。吐き気がする。今すぐこの部屋に火をつけてしまいたかったが、そんな気持ちをぐっと堪える。
破壊されたドアと、この大量の写真が発見されれば、奴への監視は今より厳しくなるだろう。また刑務所に戻される可能性もある。それは駄目だ。それでは奴を殺せない。オレは今更ドアを蹴破ったことを後悔し始める。ここで尾寺が戻るのを待つという選択肢も頭をよぎったが、都枡さんが拉致された可能性が高い今、そんな悠長にしている時間はない。
早急に尾寺を見つけなければ。そんなことを考えながら次の行動を決めかねて部屋をうろついていると壁の隅に妙なものを見つける。
写真に紛れていたそれは、地図だった。それは乱雑に破り取られたのか、歪な形をしており、中央付近には、赤いばつ印がつけられていた。
調べてみるとそこは、県境にある、既に閉鎖されている精肉工場だった。
精肉工場の地図が何故こんなところにある。理由を考えようとしたとき、ある考えが頭をよぎり、全身に鳥肌がたつ。
脳が勝手に都枡さんのバラバラ死体を想像する。急激な嘔吐感に襲われたオレは、口を押さえてその場にうずくまってしまう。床にもたくさんの写真が落ちていた。オレと知り合う前だろう。写真に写っている彼女はどこか虚な眼をしていて、知らない女性のようだった。
そして、やっぱり、とても姉さんに似ていた。
吐き気がおさまるのを待って、オレはゆっくりと立ち上がる。
ここでじっとしていても状況は変わらない。オレは精肉工場に向かうため、なるべく自分の痕跡を消してから尾寺のアパートを後にする。まだ薬が抜けていないのか、雨のなかに朧げに浮かぶ街灯の灯が流れ星のように見えた。オレはすがるような気持ちで、彼女の無事を願った。
電車を乗り継ぎ、精肉工場のある駅に到着する頃には、もう深夜と言ってもいい時間帯だった。かなり歩いて辿り着いたその場所には工場以外の建物はなにもなかった。ただ巨大な工場のシルエットだけが、雨が降りしきる闇の中で、不気味に浮かび上がる。
閉鎖されているせいで、あちこちに立ち入り禁止の看板が置かれていた。オレはさしていた傘を捨てると、敷地内に侵入する。屋根から落ちる雨水が鉄製の資材にぶつかり、ばちばちと音を立てている。
正面入り口は当然ながら固く閉ざされていて入れそうにない。オレは他に侵入できそうな場所がないか敷地内を歩き回った。
やがて開けた空間に出た。所々アスファルトがひび割れていて、その隙間から雑草が生い茂る。もう使われていない駐車場のようだ。
闇の中に眼を凝らすと、そこに一台のワゴンが止まっているのを見つけた。その瞬間、自然と心臓が跳ねる。
車には何日も放置された形跡はない。これが尾寺の乗ってきた車である可能性は高い。
オレは気配を消してワゴンに近づくと、窓から車内を覗き込む。人影はなかった。
駐車場を離れ、建物の裏手に回ると、錆びついたドアが少しだけ開いていた。中から明滅する灯りが漏れている。慎重に近づき、隙間から中を覗くと、廊下が見える。その先に部屋があり、灯はそこから漏れ出ていた。部屋からは微かな機械の稼働音が聞こえた。
ドアを引くとギィイと金属が擦れる音がする。気付かれたかと思い動きを止めるが、少し待っても尾寺が姿を表す様子はない。オレは意を決して扉を引き、最小限の隙間を開けると、そこから身体を捻じ込ませ、中に入る。
ポケットからナイフを取り出し、小指から順に閉じて、しっかりと握り込む。緊張により足の裏がむずむずする。脈拍が高まり、薬が体内を駆け巡る。どうせ飲むならハイになる薬を飲みたかった。けれど、そんなもの持ってはいない。
薄汚れた深緑色の短い廊下を歩く。床は濡れていた。ゴムの靴底が音を立てないようにゆっくりと進む。部屋から漏れる明滅が徐々に近づく。
部屋の前に来たとき、ちょうど機械の音が止んだ。慎重に中を覗くと、まだ光に眼が馴れていないのか、照明が異様に明るく感じた。一斤染の壁が見える、どうやら精肉室のようだ。コンクリート敷きの床にはゴミが溢れて、所々に血痕が飛び散っていた。部屋中に血の匂いが充満している。天井には肉を吊り下げるレールがあり、壁に沿って埃を被ったスレンレス製の作業台が所狭しと並んでいる。窓の類は一切ない。ここから見えるのはそれだけで、尾寺の姿も都枡さんの姿も確認できず、人の声も聞こえない。
都枡さん。
最悪な結末を予想し、心に受けるショックを和らげようとするが、感じるのは尾寺に対する怒りだけだった。オレは部屋の中に足を踏み入れる。血の匂いに混じってほのかな焦げ臭さを感じる。
行手には大型のミンチ機があり、その陰にこちらに背を向けた人影が見えた。
人影は一つだけだった。
ああ。と、オレは思った。心が一瞬で失望と絶望で塗りつぶされる。
また護れなかった。自然と都枡さんと姉さんの笑顔が、走馬灯のように頭に思い浮かぶ。
背を向けた人影は、白い作業着とキャップを身につけ、青いゴム手袋を嵌めて、なにか作業をしている。思ったより小柄な男だと思いながらもオレは人影との距離を一気に詰める。
殺してやる。でも、簡単には殺さない。先ずは背中を刺して戦意を奪う。次に足を刺して動けなくする。そのあとは爪を剥ぎ、指を切り落とし、性器を切り落とす。それらの箇所を止血したあとは鼻を削ぎ、皮を剥ぎ、目を繰り抜いて、何度も死ぬギリギリまで血を抜き、数日生かし続ける。殺してくれという言葉を三万回言ったら死ぬのを許可してやる。たけど、オレはそれをただ見ている。オレは止めを刺さない。最期は自分で勝手に死ね。もうオレにはなにも残っていない。だからお前は、オレに護るものがあった日々を思い出させるためだけに残りの人生の全てを費やせ。
オレは逆手に持ったナイフを大きく振りかぶる。不意にその顔がこちらを振り向いた。繰り返される明滅に照らし出されるその顔を見た瞬間、全身が凍りつく。既に振り下ろされたナイフは作業着を少しだけ切り裂き、肉体の寸前で止まっていた。
それは、オレのよく知る顔だった。人影は白いキャップを外す。艶のある黒髪が躍るように宙で揺れた。
「先輩、やっぱり来てくれたんですね」
彼女は言う。なにも問題は無い、なにも心配ごとなど無いのだ、とでも言いたげに。
都枡松子は。
とても無邪気に、そう言った。
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