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 五歳の頃、初めて死という概念を理解したとき、あまりの恐怖に私は布団の中で一晩中泣き続けた。その最中、私の小さな頭は、死から逃れる方法を必死で考え初めていた。  その日を境に私は一日中、本とネット情報を読み漁るようになった。どこかに死を回避できる方法や答えがある筈だと信じて。  しかし、すぐにそんなものは存在しないのだとわかった。人が創り出していないものに答えなどないをことを知った。時間が戻せないように。始まれば終わるように。必ず人は死ぬ。それは人間である以上、誰も避けられない自然の摂理だった。私は絶望した。そしてまた泣いた。  それでも私は諦めなかった。逃れられないのなら、それを出来るだけ先延ばしにすればいい。人を殺すのは人だ。それが病気という見えない敵という場合もあるのだろうが、幸い私は健康だ。なら人間の心を知ればいい。そうすれば人が人を殺す思考回路を理解することがきっとできる。  私はずっとたくさん勉強をした。勉強をして、勉強をして、勉強をした。少しでも死の確率を下げる安全な場所に行くために必死で勉強をした。しかし、それでも不十分だった。死の危険は常につきまとう。私は悩んだ。悩みすぎて引きこもりになった時期もあった。  そしてあるとき、ふと気が付いた。逃れられないのなら、死への可能性を感じる脅威を、この手で排除すればいいと。  私は挽きたての肉を両手いっぱいに掬い上げると、それを最大火力で熱したフライパンの上に隙間なく敷き詰める。熱が加わった挽肉は、ジューという音を立てながら赤から暗褐色へ色を変えていく。  コンロは三口。その全てに三十センチメートルのフライパンが隙間なく置かれている。私はいま挽肉を乗せたのとは別のフライパンの柄を両手で掴む。中では焦げて芯まで炭化した挽肉だったものが黒い煙を上げている。換気扇を全開にしていてもやはり焦げ臭さは残る。不愉快だが、仕方ない。  私はフライパンを持ち上げると、中身を躊躇なくゴミ箱に放り込む。そしてそのフライパンをコンロに戻して、新たな挽肉を敷き詰める。そしてまた炭化した挽肉の入った別のフライパンへと手を伸ばす。ミンチ機の挽肉がなくなるまでこの工程を繰り返す。  部屋の空気の流れが変わるのを肌で感じる。出入り口のドアを少し開けておいた。流れ込む空気の量が変われば体感に変化がある。あの錆びついたドアが自然に開くことはまずない。つまりは誰かがこの建物に入ってきたということ。こんな時間に、こんな場所へ現れる人物なんて一人しかいない。  彼はちゃんと私が尾寺の部屋に残した地図を見つけてここに来てくれた。私を助けに来てくれた。  我慢しようとしても駄目だ。どうしても顔がにやけてしまう。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。うれしい。心が得も言われぬ幸福感に包まれる。  背後に気配が迫ってくる。振り向くとそこには私の想像した通りの人が立っていた。  暮網先輩。  彼はナイフを振り下ろした姿のまま、その場に立ち尽くしている。刃は私の身体に届く直前で止まっている。愕然とした表情からは、明らかに混乱が感じられ、事態が飲み込めていないことが伺える。 「先輩、やっぱり来てくれたんですね」  私は思わず先輩に抱きついた。そして先輩の服がぐっしょりと濡れていることに気付く。そうだ、先輩は風邪をひいている。このままでは体調がさらに悪化してしまう。 「大変、すぐに服を乾かさないと」  先輩の顔を見上げると、焦点の定まらない眼が宙を彷徨っている。一瞬にも満たない明滅のあと、その視線は私をとらえていた。その光景はまるでコマ送りの映画を見ているみたいだった。 「都枡、さん。その顔は?」 「え?」  左頬を撫でると鈍い痛みを感じる。それと同時に、尾寺に殴られたことを思い出す。  あの男は部屋に踏み込んで来ると、いきなり拳で私の頬を殴りつけた。その行動を予想していた私は、予定していた通りに大仰に壁に突っ込むと、一気に身体の力を抜き、気絶したフリをする。尾寺は品のない下衆な笑い声を発しながら近づいて来る。予想した通りの反応だった。男の多くは暴力で他人を支配しようとする。それに抗おうとすれば、より強い暴力を振るわれ、最悪殺されてしまう。力でいえば圧倒的に女の方が弱い。ならばその先入観を利用して、相手を支配できたと思わせればいい。自分の方が上だと、強者だと思い込めば、人は誰でも油断する。自分が支配した相手が反撃してくるなんて夢にも思わない。単純な話だ。  吐息がかかりそうなほどの距離まで尾寺が近づいて来ると、私は隠し持っていた睡眠薬で奴を昏倒させる。そのあとはいつも通り、この工場まで運ぶだけだった。 「ああ、この傷ですか? 大丈夫です。骨も歯も折れてはいません。もう血も止まっています」  私は先輩を安心させるような声色を選んでそう言うと、既に乾いた鼻血を拭う。その甲斐あってか、先輩の顔には僅かな安堵の色が浮かぶ。 「尾寺は?」先輩はまだ警戒が残る眼線で辺りを見回した。 「ああ、それです」私はコンロの方を指し示す。  フライパンに敷き詰められた挽肉を見た瞬間に、先輩は直ぐに状況を理解した。先輩は慄いて後退り、ステンレス製の作業台に背中から突っ込んだ。上に積もった埃が一気に舞い上がり、ゆっくりと床へおちていく。先輩の眼には強い恐怖の色が浮かんでいた。 「これは、君がやったの?」  普段は澄まし顔か、険しい顔をしている先輩の怯えた表情は、まるで小動物のようで、そのあまりの可愛らしさに自然と口角が上がってきてしまう。 「八百度以上で骨は灰になります。でも、人間を燃やすのは目立ちますし、小さな骨も残ります。なら、バラバラにすればいい。しかし、それでは労力がかかり、解体場所が汚れてしまいます。更にバラバラになった肉片の処理や、においが残ってしまう問題もあります。そこで私は閃きました。ミンチにして炭化させてしまえば、死体も見つからず、出るゴミも、かかる労力も最小限で済むのではないかと。まあ、その影響で挽肉が食べられなくなってしまいましたが、死を私から遠ざけることが出来れば、それくらい大した問題ではありません」 「死を、遠ざける?」先輩は、私に問いかける。 「私は死ぬのが怖いです。日本の他殺率は年々減少傾向にありますが、毎日流れる殺人や事故のニュースを見るたびに明日は自分が死ぬのではないのかと考えてしまいます。私は他の人がそうであるように、自分は大丈夫だと、特別な存在だと思い込むことが出来ません。いつもいつも死の恐怖に怯えています。だから私は出来うる限りのことをしようと考えました。痴漢やストーカーを含む、私に危害を加える可能性の高い無礼で品のない人間。私は身の回りにいるそれらの人間たちを徹底的に排除することを決め、何年も前から実行してきました」 「排除だって? まさか最近、巷で起きている失踪事件って」 「さすが先輩、察しが良いですね。そうです。全て私がやったことです。これを始めたときには、多くても排除する人間は四、五人程度だと思っていましたが、残念ながら世の中は無礼な人間で溢れていました。排除した人間の数も、もう両手では数えきれません。排除した人間の中には、恋人や家族がいる人もいたことでしょう。でもそれは、私には何の関係もないことです。危害を加えようとする無礼な人間にも優しく敬意を持って接すれば命が危機に晒されないのなら、喜んでそうしました。しかし、現実はそんなことはありませんでした。世界は性善説では成り立っていませんでした。悲しい真実です」  体調が酷く悪いからか、はたまた恐怖のせいか、先輩の足が震えている。その足が床に散乱しているゴミに当たる。それは品のない光沢を放つ大ぶりな腕時計だった。先輩はどうやらそれに見覚えがあったようで、驚愕の表情で私を見た。私は最初、その時計が何かわからなかったが、数十秒考えて、ようやく思い出した。 「ああ、それは風間先輩の時計ですね」  私はかがみ込むと、指先で腕時計をつまみ上げる。 「きみはまさか、風間を殺したのか?」 「はい」私はこともなげに答えた。先輩は律儀にも、絶句する反応を示す。 「あのカフェテリアの一件のあと、風間先輩は、件の出来事について謝罪したいと私を食事に誘ってきました。断っても、あまりにしつこく食い下がるので、仕方なくご一緒したのですが、やはりと言うべきか、彼は私が席を外した際に、私の飲み物に薬を混ぜていました」  その行動の意味を理解した先輩の眉間に、深い縦皺が寄る。 「しかし、そんな愚かで無礼な行為を目撃しなくても、私は初めから風間先輩のことを処理するつもりでした。あの人は美紗貴ちゃんに怪我をさせ、先輩を侮辱し、暴力をふるおうとしました。その行為は許しがたく、万死に値する行為です」  私はつまんだ腕時計をぱっと離す。硬い音が部屋中に反響する。 「余談ですが、初めて先輩に会った日に、私に痴漢を働いていた男も、先輩に暴言を吐いたので、探し出して殺しました。とても簡単でしたよ」  先輩の呼吸がだんだんと荒くなってくる。きっとこの現実を受け入れようと必死なのだろう。そんな先輩の健気さが可愛くて仕方ない。許されるのなら今すぐ彼を抱きしめたい。でも、それはいますべきことではない。私には言うべきことがある。 「私はなにも快楽や酔狂で人を殺している訳ではありません。世の中にはモラルや秩序や道徳が必要不可欠だと思いますし、それらは尊むべきものだとも思います。しかし、それらを持ち合わせていない人間もいます。有害な作用をもたらす存在は害虫と変わらない。害虫ならば駆除をしなければなりません。害虫を野放しにしておけば世の中は際限なく悪くなっていってしまいます」 「やめろ……」 先輩は蚊の鳴くような声で言うが、私は聞こえないフリをして話し続ける。 「私は自分の行いが正義だとも悪だとも思っていません、しかし物事を単純に二極化するのであれば、この行いは正義だと思っています。他者を悪戯に踏み付けにする忌むべき存在は、排除されて当然なのです」 「やめてくれ、頼むから……」 「ルソーは「植物は耕作によりつくられ、人間は教育によってつくられる」と述べ、カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べています。ここで言われている教育というのは、倫理や道徳のことだと私は解釈しています、つまりこれらの常識を持ち合わせていないということは、教育を受けていないということ。それらは果たして人間と呼べるのでしょうか? そういった者たちに今までどれほど悲劇的な人生があったとしても、罪を犯していい理由にはなりません。人権という言葉も、人間に適用される原理であって、ヒトの形をしただけのモノに当てはめるべきではありません。それに、残念ながら人は変わりません。一度付いた汚れはそのあと、どれほど落ちたように見えても……」 「もうやめてくれ!」  先輩は頭を抱えるように両耳を塞ぎながら叫ぶ。初めて聞く声量に驚いた私は、思わず口をつぐんだ。  彼は肩で息をして、泣き出しそうな顔で私を見る。 「駄目だ。きみは、人を殺しちゃ駄目だ。きみは、そんなことをしちゃ、駄目なんだ」  先輩は絞り出すようにそう言うと、ナイフを構える。冷たく光る刃先はこちらを向いていた。  震える手でナイフを構える先輩の顔には、私の言動や行動に対するであろう、強い嫌悪感が表れていた。  その表情を見て、私は思う。  ああ、愛おしい。
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