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「まーたクラヤミセンパイのこと見てるの? ほんと飽きないねあんた」  水曜日の正午、大学内のカフェテリア。  無意識に窓の外に向いていた視線を前に戻すと、同じ学科の生徒であり、親友の三木美紗貴(みきみさき)ちゃんが、ランチプレートを持ちながら私の前に腰を下ろす。綺麗に切り揃えた短髪がふわりと揺れる。 「クラヤミじゃなくて暮網(くれあみ)先輩ですよ。美紗貴ちゃん」  太陽の日差しと、さわやかな風が入ってくる大きな窓にまた眼を向ける。窓の外のテラスには、友人と昼食を食べる彼の姿があった。  暮網(ひろし)さん。同じ大学の哲学科の四年生。ひょろりと痩せていて、くせっ毛で、気怠そうで、いつも黒い服を着ているひと。  そして、私のだいすきなひと。 「でもさ、まじめな話、クラヤミセンパイってちょっと怖くない? 無口だし、いっつも顔とか、どこかしらに怪我してるし、なんかヤバいことやってるんじゃないの?」  美紗貴ちゃんはそう言うと、窓の外の先輩を眺めながら、ランチプレートのエビフライを口に運ぶ。 「そうですか? 私にはそんなに怖い人には見えませんが」 「実際に怖いかどうかは別にして、正直、あんたみたいな真面目一辺倒な子があんな怖そうな人のことを好きになる理由がわからない。優等生が不良を好きになるみたいな感じ? ねえ、クラヤミ先輩のどこが好きなの?」  美紗貴ちゃんは先輩を一瞥すると、真剣な表情で私の顔を覗き込む。 「人間は本能的に、自分にはないものを持ってる相手に好意を持つみたいですよ。相補性というやつです。なので美紗貴ちゃんの説もあながち間違いではないかもしれませんね」  私がそう言うと美紗貴ちゃんは不機嫌そうな表情になり、更に顔を近づけた。鼻の先と先が少しだけ当たる。 「そんな講義で教授が言いそうなことを聞いてんじゃないの。あんたが、センパイの、どこを、好きかを、聞いてるの」 「どこが……えっと、かわいいところ、ですかね?」  美紗貴ちゃんの圧に慄いた私は、つい本音を口にしてしまう。しまったと思った直後、彼女の顔は、納得がいかないとばかりに大きく歪んだ。 「かわいい? あんたのかけてる眼鏡、ほんとに度あってる?」 「失敬な、あってますよ。先輩はとてもかわいくて、いい人です」  私は、うっかり本音を語ってしまった恥ずかしさを感情の傍に追いやり、開き直って答えた。 「ふーん。雨の中、ネコに餌をあげてるところでも見たとか?」 「まあ、そんなところです」  私は窓の外をこっそりと見る。先輩は日替わりランチのオムレツを無表情に口に運んでいた。先輩はオムレツに必ずネコの絵を描く。それが意識的なのか無意識的なのかは謎だけれど、ネコの絵を描く先輩の姿は、とても可愛らしくて、いつも胸がときめいてしまう。 「おやおやぁ、恋する乙女の顔ですねえ」  先輩の姿に見惚れていた私に、美紗貴ちゃんが意地悪な笑顔を向けてくる。私は慌てて彼女に視線を戻す。「そ、そんな顔してました?」 「してたしてた。もう、めっちゃにやけてた」  顔から火が出るというのはこのようなことを言うのだろうか。私は咄嗟に顔を両手で覆い、出来るだけ身を小さくする。 「は、はは、恥ずかしい。今の私の顔、先輩に見られてなかったでしょうか?」 「さあねえ? ガン見されてたんじゃないの? タコみたいに真っ赤なあんたの顔」  美紗貴ちゃんはけらけらと笑い出す。 「美紗貴ちゃん、いじわるです」 「あはは、ごめんごめん。でも、あのガリ勉で、大学でもあたし以外の人間と関わろうとしなかったあんたが、恋かあ。なんだっけ、困ってたところを助けてもらったんだっけ?」  美紗貴ちゃんは感慨深そうに言った。大学に入学して間もないころ、私は通学中の電車で痴漢にあった。突然の出来事と嫌悪感で頭が真っ白になって動けなくなっていたとき、その痴漢の腕を掴み、颯爽と助けてくれたのが暮網先輩だった。  痴漢から罵声を浴びせられても全く物怖じしないその態度と、長い前髪からのぞく彼の瞳を見たとき、私の中に稲妻に似た衝撃が走った。それからというもの、寝ても覚めても彼のことが頭から離れなくなってしまった。それが所謂一目惚れというやつだと知ったのはそれから数日後のことだった。  毎日何をしていても思い浮かぶのは彼のことばかり。いつの間にか電車内で彼の姿見を遠目で眺めることが私の日課になっていた。私に初めて勉強以外の楽しみができた。  しばらく経って、彼が同じ大学の哲学科に在籍する先輩だということを知った。天の采配のような奇跡に私は完全に舞い上がってしまい、その日は一日中部屋で小躍りをしていた。先輩にキャンパスでも会える。そう考えるだけで、私の身体は形容しがたい、むずがゆくなるような幸福感に包まれた。  外に出ることが億劫じゃなくなった。会えるかなとキャンパス内を無駄にうろうろすることが楽しかった。偶然先輩を見かけると、その日一日が幸せだった。 「でもさ、そんな好きならさっさと告白しちゃえばいいじゃん? あんたずーっとセンパイ眺めてるだけじゃん。かれこれ一年くらい」 「こ、告っ」  美紗貴ちゃんの言葉に、私は軽くむせかえりそうになる。無理だ。無理無理無理。告白なんて絶対無理。今の私には遠くから先輩の姿を眺めることが精一杯だった。面と向かって話すのを思い浮かべるだけで、緊張してうまく声が出なくなる。でも、そのせいで未だに助けてもらったお礼すら言えていなかった。 「む、無理ですよ。まだ話したこともないのに」 「でもさ、あんたがもたもたしている間に、先輩が他の女に取られちゃう可能性もゼロじゃないんだよ?」  美紗貴ちゃんの言葉はまるで、氷を直接当てられたかように私の身体を強張らせる。先輩が他の女の人に取られる? 想像しただけで胸が締め付けられ、涙で視界がぼやけだす。私はうつむいて服の裾をぎゅっと掴んだ。 「そ、そんなの、いやです。絶対いやです」私は絞り出すように言った。  きっとこの時の私は泣きそうな顔をしていただろう。そんな私を見た美紗貴ちゃんは優しく微笑んで言った。 「なら、いつまでも眺めてるだけじゃだめだよ。次のステップに進まなきゃ。ここでなにもしなかったら、非行為後悔に繋がるよ。一生、あのときこうしていたら、ああしていたら、って思いながら生きていくのは嫌でしょ?」 「そうですね。後悔するくらいなら行為後悔。つまり、やらない後悔より、やった後悔のほうがいいですね」  私は顔を上げる「よし」 「本にはまず、笑顔で挨拶から始めればいいって書いてあったので、そこから始めてみます」 「本なんかに頼っちゃダメ。時には歩くよりまず走れ、だよ。とりあえず先輩をご飯に誘おう。助けてくれたお礼にってさ」 「ええ。最初からハードル高すぎませんか?」 「大丈夫だって。あんた見た目いいんだから。かわいい女の子に食事に誘われて嫌な気分になる男なんていないって」 「そうなの、ですか?」自分の容姿にあまり自信のない私は、美紗貴ちゃんに疑いの視線を向ける。 「いい? よく聞きなさい。恋愛は押して押して押しまくった方が勝つのよ」  美紗貴ちゃんは自信満々にそう宣言する。私は足下のトートバッグからノートとペンを取り出すと、彼女の言った言葉を書き留める「恋愛は押して押して押しまくった方が勝つ」なるほど、勉強になる。 「でも、ご飯に誘うって、何からすればいいんですか?」 「そこはあたしに任せなさい」  いつの間にかランチプレートを綺麗に平らげていた美紗貴ちゃんは、得意げに言った。  さすが恋愛経験豊富な美紗貴ちゃん、頼りになる。私は両の手を合わせて拝むと、彼女に尊敬の眼差しを向ける。 「早速今日の講義のあと。近くのカフェで作戦会議しよう」  美紗貴ちゃんは楽しそうだった。でも、その態度は、人間特有の、ゴシップを好む心理からくる軽率な行動などではなく、ただ純粋に私の初恋を応援してくれているように感じられた。彼女には裏表がない。だから誰とでもすぐに仲良くなれるし、誰からも好かれる。私みたいな勉強だけしか出来ない人間とも親友でいてくれる。私は感謝を嚙み締めた。  そして私はこぶしを握ると、心の中で呟いた。 「がんばるぞ。先輩をご飯に誘うんだ」
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