2.5

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 今から六年前、当時三十歳の男が、未成年の女性に二時間に渡り飲酒を強要し、酩酊した同女を刃物で脅して強姦する事件があった。  男は逮捕されることなく、警視庁から東京地方検察庁に書類送検されたが、しばらく経って強姦罪で起訴された。その後、東京地方裁判所は男に懲役五年の実刑判決を下した。  当時のニュース番組ではこの事件を「心の殺害」と評して報道するなどして、社会に非常に大きな衝撃を与えた。  一年前に刑期を終えた男は出所し、今は一般人として普通の生活を送ってる。  男の名は、木澤(きざわ)ヨウイチ。三十六歳。今回の駆除対象だ。  午後二十三時五十分。全身を黒い服で身を包んだオレは、ピッキングで木澤の住む六畳一間のアパートに侵入し、息を殺して奴の帰りを待っていた。黒は良い。簡単に闇に溶け込めるし、何より返り血が目立たない。 「ねえ、ヒロくん、またやるの?」  オレの横で、姉の暮網阿羅菜(くれあみあらな)が、そわそわしながら声をかけてくる。  姉さん、少し黙っててくれない? これから大事な用事があるんだ。 「だからそれが駄目だっていってるんでしょ」  姉さんはムッと膨れてオレの頭を小突いてくる。でも、なにも感じない。 「ねえ、こんなこともうやめて、おうちに帰ろうよ。こんなこと絶対良くないよ」  良い悪いんじゃないんだよ。これはオレがやらなきゃいけないことなんだ。 「こんなこと、ヒロ君のやりたかったことじゃないでしょ。将来はコックさんになるってずっと言ってたじゃない。あのときのヒロ君が、今のヒロ君を見たらきっと悲しむよ」  うるさい。姉さんにオレの何がわかるっていうんだ。  オレはポケットからピルケースを取り出すと、中のモルヒネを二、三錠一気に飲み下す。 「あ、またそんなお薬飲んで、やめなさい」  オレがモルヒネを飲むことを嫌っている姉さんは、ピルケースごと薬を奪おうとするが、薬は既にポケットにしまってあった。 「ヒロ君なんか、もう知らない」  姉さんは怒って部屋を出て行ってしまう。オレとしてはその方がありがたかった。これからやることを、姉さんには見ていてほしくない。  その後すぐに足音が聞こえてくる。重く疲れた足取り、木澤だ。  奴は近所の定食屋でアルバイトをしている。毎日二十三時三十分にバイト先を出て、二十四時ちょうどにこのアパートに帰ってくるというのが、三週間監視して把握した、奴のルーティーンだ。  足音が近づいてくる。オレは頭にかぶった黒の目出し帽を首元まで下ろし、目と口の位置を調整すると、手袋をはめた手で用意してあったモンキーレンチを手に取った。  足音が止まり、鍵を取り出す音の後、開錠音が部屋内に短く木霊する。ドアが開くと、廊下の蛍光灯に照らされた男の姿が浮かび上がる。醜く太った身体に、腫れぼったい一重瞼、フケまみれの髪の毛。間違いなく木澤だった。  木澤がドアを閉め、施錠をした瞬間、オレは物陰から飛び出し、モンキーレンチで思い切り奴の頭を殴りつける。頭から噴き出した血が玄関に飛び散った。  奴は倒れるが、想像以上に状況を理解するのが早かった。木澤は思いのほか俊敏な動きで立ち上がると、奇声を発して突進してくる。オレは突き飛ばされ、薄い木製のドアを突き破った。痺れるような激痛が全身を駆け巡り、動けずにいると、すかさず木澤が馬乗りになってきて、殺意を込めて顔面を殴りつけてくる。殴られる度に意識が飛びそうになるほどの重い拳だった。  オレはポケットからナイフを取り出すと、それを木澤の大腿部に勢いよく突き立てる。奴は絶叫し、床を転げまわった。オレは起き上がろうとするが、思うように身体が動かない。結局起き上がるのに想定の倍の時間がかかってしまった。オレは起き上がると、未だに床をのたうち回る木澤の背後に回り込み、後ろ手に首を締め上げる。奴は初めの方こそ激しく抵抗していたが、やがて痙攣しだして意識を失う。  殺してはいない。こいつには、まだ痛みも後悔も足りない。こいつにこんな簡単な死に方は生ぬるい。木澤は失禁していた。  木澤の両手両足を結束バンドで拘束したオレは、嫌悪感を込めて奴の頬を殴打する。木澤は唸り声を発し眼を覚ます。あいつの眼がオレの姿をとらえるより先に、オレは奴の胸にゆっくりとナイフを突き刺した。  ナイフを刺すときは時間をかけてゆっくりと刺していくのが効果的だ。刃は骨を傷付け、内臓を貫き、苦痛と恐怖を与え続ける。その間にも、血と命は止めどなく流れ落ちていく。  奴らを痛めつける事に悦びや快感は無い。むしろ苦悶の表情、悲痛な叫び、命乞い、そのどれもが吐き気を感じるほどに酷く耳障りで不愉快だ。だが、一瞬で終わらせたりなんかはしない。奴らには最大限の苦痛と恐怖を感じる責任がある。  これは罰だ。奴らが自ら犯した醜悪で下衆な罪に対する当然の報いだ。  だから木澤が鳴こうが喚こうが、オレは何も感じない。  こいつは害虫だ。害虫は駆除しないと沢山の不幸や涙を産む。  だからオレはこいつを、木澤ヨウイチを殺す。一切の躊躇や慈悲を持たず、強い怒りを以て駆除をする。  オレは刺さったナイフをゆっくりと下げ、奴の腹を切り開いていく。痛みに耐えきれなくなった木澤は甲高い悲鳴を上げる。 「騒ぐな。大きな声を出すな」そう言いながらオレは、奴の腹からゆっくりとナイフを引き抜く。 「な、なんなんだお前は。俺に何の恨みがある」木澤は苦痛と恐怖が混在した声で言った。 「オレは怒りだ。お前たちに傷付けられた人たちの怒りそのものだ。後悔しろ。お前にできるのはそれだけだ」 「後悔? 俺は何もしていない。ちゃんと働いて社会にだって貢献してる。なんで、なんで俺がこんなめにあわなきゃいけないんだ!」  木澤は声を上げて泣き出した。その姿はひどく惨めでオレの神経を逆撫でする。 「人を殺しておいて、よくそんなことが言えるな」  オレは木澤の頭を鷲掴みにし、腹の傷を思い切り蹴り込んだ。袋が破裂したように血が吹き出し、奴は嘔吐する。 「俺は、誰も殺してなんていないし、誰も傷付けてなんか、いないぞ」  息も絶え絶えに木澤は言う。 「お前が強姦した少女、その後どうなったか知っているか?」 「は?」  木澤は一瞬何のことかわからないといった表情をして数十秒黙り込んだ後、ようやく自分の犯した罪を思い出した様だった。 「知るかよ。どうせそこら辺の男と結婚して普通の生活を送ってるんだろ?」 「自殺したよ。一年前にな。彼女はお前のせいで普通の生活を送れなくなった。事件の後もずっと苦しんで、最期は自ら命を絶ったんだ」  その言葉に、木澤は全く悪びれる様子もなく、むしろ心外だとでも言いたげに声を荒げた。 「あ? 俺のせいか? たかがセックスだろう? 女はいちいちセックスごときで大げさなんだよ。俺は悪くない! それにあの女も愉しんでたに決まってる。あんなによがり狂って……」  噴水のような鮮血を身体中に浴びて我に返る。オレは無意識に木澤の喉を切り裂いていた。奴は眼を見開き、数秒間苦しそうに喘いで、そして、あっけなく死んだ。  木澤ヨウイチの死に顔は、この世のものとは思えないほど醜悪だった。  オレは立ち上がると洗面所に移動する。鉛のように重い疲労感が全身を支配している。まるで命が削りとられていくような感じがする疲労感だった。  鏡の前に立ったオレは目出し帽を外す。殴られた部分がもう赤黒く腫れあがっている。また孝弘の世話になってしまうな。そう申し訳なさを感じたとき、あることに気付いた。露出していた眼の周りと口元が血に染まっている。その姿はまるで滑稽なピエロのようだった。  付いた血を落とそうと蛇口をひねり、水を出したとき、オレは急な吐き気に襲われ、その場に吐いた。昼に食べたものはもうとっくに消化されて、夜は何も食べていない。出てきたのはさっき飲み下した錠剤だけだった。それでも吐き気は治まらない。オレは何度もその場にえずいた。  お前のやっている事は自己満足ですらない。ただの無意味な自慰行為だろう。性犯罪者だけを狙って殺すのも自己正当化の為だけの見苦しい理由付けなんだろう? 錠剤はそう言いたげに水の中で踊り、オレをあざ笑うかのように排水溝に吸い込まれていく。 「ヒロ君、大丈夫?」  いつの間にか戻ってきていた姉さんが、優しく背中を撫でてくる。 「姉さん。オレのやっていることって、無意味なのかな?」俯いたままオレはそう口にする。 「ううん。無意味なんかじゃないよ。これはきみにしか出来ないことなんだよ? ヒロ君は立派だよ。さっきはごめんね」  姉さんは優しく微笑んでオレの背中を撫で続けてくれる。背中にほのかな温かみを感じる気がする。 「ヒロ君がこれから何をしても、お姉ちゃんはずうっと味方だよ」  姉さんはそれ以上何も言わずに、ただ黙って寄り添ってくれる。  流れ続ける水の音だけが、ゆっくりと、ゆっくりと、時間に溶けてゆく。
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