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 翌日。木曜日。午前十時十六分  私はとても焦っていた。  昨晩帰宅し、部屋のドアを開けた瞬間、まるで天啓のようにその考えは飛来した。そして、瞬く間に私の頭の中を支配した。  先輩をご飯に誘う。それよりも重要なことがまだあったじゃないか。むしろそれを一番最初にやるべきだった。なんで気が付かなかったのだろう。  私は六十四リットルのキャリーケースを引きながら、キャンパス内の廊下を小走りで進む。目指す先は美紗貴ちゃんだった。  彼女はラーニング・コモンズで今日受講する講義の予習をしていた。 「おはようございます美紗貴ちゃん。大変です。大問題が発生しました。このままだと先輩をご飯に誘えません」  突然話しかけられた美紗貴ちゃんは、びくつく反応を見せると、ゆっくりと顔を上げる。 「あ、ああ、松子。おはよう。そんなに慌ててどうしたの? てゆうか、なにその荷物。旅行でも行くの?」  美紗貴ちゃんは私の持つキャリーケースを見ながら言った。 「私は今まで少しだけ、ほんの少しだけですが、ひとより賢いかもしれないと思っていました。でもそれは、思い上がりも甚だしい恥ずべき思い込みでした。私は無知です。私は愚かな大馬鹿者です」 「なに? 話が見えないんだけど?」  私はキャリーケースを開けると、中に入っていた女性ファッション誌、数十冊を勢いよく机の上にぶちまける。これは昨晩、閉店間際の書店に慌てて駆け込み、購入したものだった。急に表れた大量の雑誌に、美紗貴ちゃんの顔には明らかに困惑の色が浮かぶ。 「え? なになになに? なにこれどうしたの?」  私は小走りをした影響で上がった息を整えると、昨日得た天啓を美紗貴ちゃんに説明する。 「心理学者のアルバート・メラビアンが提唱した〝メラビアンの法則〟では、人の印象を決める際に参考となる要素は三つあり、それぞれ視覚情報が五十五%、聴覚情報が三十八%、言語情報が七%の割合を占めるとされています。つまり、人は会った瞬間の視覚情報や聴覚情報で第一印象を形成する傾向があるのです。そこで私は思いました。お化粧をし、先輩とのご飯に相応しいお洋服を探さなければならないと。なので雑誌を購入しました。徹夜で読み込み勉強しました。日本では、薬事法という法律で、化粧品とはなにかと定義されています。それによると、人の身体を清潔にし、美化し、魅力を増し、容貌を変え、または皮膚もしくは毛髪を健やかに保つことを目的に使用するものが化粧品とされています。つまり法律上、化粧とは外見を変えたり、美しく飾ったりすることだけではなく、清潔にするということだとされているのです。お化粧はその昔、「けわい」「おつくり」「みじまい」などとも言われていたそうです。「けわい」とは、気配のこと。お化粧をするひとの外見にあらわれない本質を、それとなく表現する手段が化粧でした。「おつくり」とは、カタチをつくるということ。なにをつくるかといえば、もちろん顔です。素顔では不完全。お化粧をして、初めて顔になるそうです。「みじまい」とは、身仕舞い。つまり、身嗜みです。お化粧をしないということは、身だしなみができていないことであり、素顔で人前にでることは失礼とされていました。先輩の美醜の基準はわかりませんが、出来れば先輩に好印象を持ってもらいたい。なので私はお化粧、所謂メイクのページを穴が開くほど読みました。ネットでも検索しました。結果、あれは魔法だということがわかりました。何故一重が二重になったり、あんなにキラキラしたお肌になるのでしょう。お洋服についても同じです。カリフォルニア州立大学デイヴィス校の教授、スーザン・カイザー氏によれば、服を着ることには三つの働きがあるといいます。それは、自己の確認・強化・変容機能、情報伝達機能、社会的相互作用の促進・抑制機能です。自己の確認・強化・変容機能とは、自分自身がどのような人間かを、自分の服装にもとづいて確認し、そのイメージを強めたり、あるいは変容させたりという働きのことです。また情報伝達機能とは、服装を通じて、他者に自分の特徴や欲求を伝える働きのことです。そして社会的相互作用の促進・抑制機能とは、装いが人と人とのコミュニケーションを促進したり、抑制したりしてしまう働きのことです。この三つの働きは、お化粧にも当てはまります。お化粧をする理由は、変身であり、よそおいです。お化粧によって、理想の自分に近づけることで、自分はそういう人間なんだと確認し、自分を変えていきます。初対面の人と会うとき、私たちは目の前にいる人がどんなひとなのか知りません。世の中、人は見た目で判断してはいけないと言われます。ですが、どんな人か知らないからこそ、眼で見てわかる外見が全てです。フケ・寝ぐせだらけの男性なら、不潔でだらしがない人と印象を持ったり、いつでもどこでもすっぴんの女性には、TPOをわきまえていない無知で、無礼な人という印象を与えたり等です。これは、言葉を使わないコミュニケーションの典型です。そして、その情報を受けて、人と人はコミュニケーションを行っています。外見からだらしがない人と判断したら、少なくとも、その人間に好意は抱かないでしょう。むしろ、嫌われてしまう可能性が高いです。私は先輩に嫌われたくありません。できれば好意を持っていただきたいと思っています。でも私はお化粧をしたことがありません。お洋服も同じやつを数着しか持っていません。私が今までしてきた勉強には必ず答えがありました。たいていの問題には答えがあります。でも、メイクやファッションにはその答えがありません。というより、何故こんなに重要な事柄を義務教育で学ぶカリキュラムが無いのですか? 日本は何を教育しているのですか? 出る杭は打たれる教育ですか? 没個性こそ正義という教育ですか?」  私は早口でそう捲し立てた。 「うん。とりあえず落ち着こうか。全然内容が頭に入ってこない」  肩で息をする私に、美紗貴ちゃんは冷静にそう言い放ち、水の入ったペットボトルを差し出してくれる。水を飲んで少し落ち着いた私は、美紗貴ちゃんの向かいに腰を下ろし、さっきの話の内容をかいつまんで説明する。 「……つまり、メイクと服選びを手伝ってほしいってことでいいのかな?」 「いいえ違います。先輩に絶対に好意を持ってもらえるメイクと服装を教えてください」  私は机に両手をつき、身を乗り出して言う。雑誌数冊がばさばさと音をたてて机から落ちる。 「そんなものは存在しません」  美紗貴ちゃんはきっぱりと言い放つ。 「存在、しない?」  私は倒れるように椅子に身を預ける。それはまるで死刑宣告を受けたような絶望で、そのまま地面に倒れて込んでしまいそうになる。 「まずあたしクラヤミセンパイの好みとか知らないもん。話したことないし。そもそも知ってても絶対に好かれるメイクなんてないよ。人の感性や感情なんて、ある程度把握できても、他人がコントロールできることじゃなんだから」 「じゃあ、どうすれば」私は蚊の鳴くような声で言った。 「でも、メイクもファッションも絶対的な答えがないからこそ、みんな色々試すんだよ。試して、失敗して、試行錯誤して、自分のスタイルを探していくの。これは〝自分探しの定理〟と名付けていいくらい、非常に重要かつ難解な問題よ」 「自分探しの定理」私はその言葉を反芻する。 「だから、好意を持ってもらえる可能性が高そうなメイクと服を考えて、探して、試そうよ。大事なのは不快感を与えないこと。先ずはそこから始めよう。それならあたしも手伝える」 「美紗貴ちゃん」  温かい言葉に思わず涙が込み上げてくる。美紗貴ちゃんは私の頬に手を置いて優しく微笑んだ。と、思ったら、途端に彼女の微笑がぐにゃりと歪みだす。 「て、ゆうかあんた、すっぴん眼鏡のくせに、なんでこんなにかわいいわけ? なんかムカついてきたわ」 「い、痛い。痛いです。美紗貴ちゃん」  美紗貴ちゃんは、にこにこと笑いながら私の頬をつねり続けた。痛い。 「はあ、まったく世の中は不平等で神様は不公平よね」と、美紗貴ちゃんはため息をついて私の頬から手を離す。 「美紗貴ちゃん。ありがとうございます」  ひりつく頬を撫でながら、私は彼女に頭を下げてお礼を言った。 「あんたは勉強はできるバカの典型よね。こんなのはね、直感に従えばいいのよ。この色がいいとか、これがかわいいとかね」  照れくさいのか、美紗貴ちゃんは私と眼をあわせずに雑誌を手に取ると、ページをパラパラとめくり始める。 「あんたはイエベかブルべだったらブルべ寄りだから、アイシャドウやチークはこんなのがいいかも。元が良いから素材を活かせそうなメイクを提案するわ」 「はい。先生」 「安心しなさい。私が全身全霊をかけて、あんたをかわいくしてあげるわ」 「はい。ありがとうございます先生」  美紗貴ちゃんは、取り出した眼鏡を、気取った仕草でかけると、次々と雑誌をめくりながら、ペンで印をつけてゆく。私もそれに倣って、気になった箇所に印をつけていく。私たちはノリノリだった。 「先輩をご飯に誘うのは明日に変更。今日は、都枡松子全身大改造作戦だね。講義が終わったら服と化粧品見に行こう」 「はい。よろしくお願いします」 「ねえ、松子」 「はい?」 「楽しいね」  美紗貴ちゃんは満面の笑みでそう言った。私は「はい。とても」と笑顔で応えた。  その日は、講義の後に百貨店、薬局、服屋を出来るだけ梯子し、化粧品と服を選び、最後は眼鏡屋でコンタクトレンズを購入した。  その後は、美紗貴ちゃんの家に行き、メイクの指導を受けた。指導は深夜まで及び、結局泊まらせてもらうことになった。メイクの練習は想像以上に楽しかった。  全人類が恋をすれば戦争なんてなくなるのではないか。そんな半知性的で、非合理的なことを本気で考えてしまうほど私は感情的になっていた。完全にハイになっている自覚はあったけれど止められなかった。私はどこかで人間は理性的でなければならないと思っていたし、そう生きてきたつもりだった。でも、感情に身を任せることはとても心地が良いと初めて気付いた。  たまにはこんな気持ちになるのも悪くない。私はシートでメイクを落としながらそう思った。  昨日の徹夜と、今日の疲れによるナチュラルハイで、眼と頭はこれ以上ないくらいに冴えていたけれど、睡眠不足は美容の天敵なのだ。私は先にベッドで寝ていた美紗貴ちゃんの隣にそっと潜り込むと、ゆっくりと眼を閉じる。彼女の寝息が微かに聞こえてくる。すぐに私は眠りに落ちた。  夢を見た。夢の中で私は先輩とキスをしていた。お互いの感情を確かめ合うような、ぎこちないながらも、とてもやさしいキス。唇の先で先輩の体温を感じる。どこからか吹き込んでくる優しい風で先輩の前髪が揺れた。一瞬だけ見えた先輩の瞳には、私の姿が写っていた。 「松子、ほら起きて。そろそろ準備しないと講義に遅刻しちゃう」  美紗貴ちゃん揺さぶられて私は眼を覚ます。起き上がった私の顔を見た瞬間、美紗貴ちゃんは、くすくすと笑い出す。 「めっちゃにやけてどうしたの? なんかいい夢でも見た?」 「……夢の中でファーストキスをしました。とても幸せな夢でした」 「ふーん。まあ、逆夢にならないようにね」 「不吉なことを言わないでくださいよ」 「ごめんごめん」  美紗貴ちゃんはパジャマを脱ぐと、てきぱきと着替えとメイクを始めた。あまりに流麗な一連の動きに私は眼を奪われる。 「なにぼーっとしてんの。あんただって早く準備しなきゃ。メイクするんでしょ? 今日こそ先輩をご飯に誘うんでしょ?」  そうだった。いまだにベッドの中にいた私は急いで飛び起きると、昨日美紗貴ちゃんと選んだ黒いワンピースに着替えて、覚えたてのメイクをする。  その後、初めてのコンタクトレンズの装着に一時間ほど大苦戦し、私たちは盛大に講義に遅刻したのであった。
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