5人が本棚に入れています
本棚に追加
4
「本当にごめんなさい」
金曜日。午後十二時三十分。
私はキャンパスのカフェテリア内で土下座をする勢いで、美紗貴ちゃんに頭を下げる。
「いいっていいって。確かに初コンタクトは強敵だったよね。無事着けられてよかったじゃん。メイクも上手に出来たし」
「でも、講義に遅刻してしまいました」
私は頭を下げたままの状態で言う。
「講義の一つや二つ、あんたが可愛くなるなら安いもんよ。てゆうか気付いた? 今日みんなあんたのこと見てるよ」
「少し恥ずかしいです」
「よく言うわ。まあ、遅刻のことはほんと気にしなくていいから」
美紗貴ちゃんは優しい言葉をかけてくれるが、それでは私の気持ちはおさまらなかった。
「なら、せめてお昼ご飯をご馳走させてください。これなんてどうですか? 特製和牛ステーキ御膳、二千円! それともこちらにしますか? 超絶贅沢海鮮丼、三千円!」
私は券売機の前に行き、値段の高いメニューを次々とおすすめする。
「わかった、わかったから。じゃあ、お言葉に甘えてご馳走になろうかな。でもいつものランチプレートにするね」
「わかりました。では私は席を確保しておきます。お支払いは必ずこれでお願いします」
そう言って美紗貴ちゃんに押し付けるようにお財布を渡すと、私は空いているテーブルを探し始める。金曜日の午後のカフェテリアは、普段以上に込み合っていた。テーブルを探す間にたくさんの視線を痛いほど感じる。これがメイクの効果なのか、本当に魔法なのだな。と私は自分の身に起きている出来事をどこか他人事のように感じていた。
空いているテーブルを見つけて椅子に座ると、私はあたりを見回し始める。あまりにも自然なその動作が、無意識に先輩を探している動作だと気付いたのは、その数秒後だった。
先輩の姿はカフェテリア内には見当たらなかった。残念な気分になり、私はがっくりと項垂れる。そのあとすぐに眼の前に誰かが座る気配があり、反射的に顔を上げた。
「こんにちは。都枡松子さん」
私の眼の前にいたのは知らない男の人だった。てっきり美紗貴ちゃんだと思っていた私は、不意に現れた知らない顔を前にして、固まってしまう。
「ああ、緊張しなくて大丈夫だよ」
眼前に座る男の人が言う。私は何か言わなければと思い、頭の中でいま一番言うべき言葉を探す。
「あの、どちら様ですか? そちらは友人の席なのですが」
男の人は一瞬きょとんとした表情をするが、すぐに柔和な笑みに転じる。
「僕は風間将。知ってるでしょ?」
知らない。と言うのは流石に失礼だと思った私は、風間将の名前を記憶の中で検索し始める。彼の名前は思いのほか早く見つかった。数週間前の講義終わりに、近くにいた女の子たちの話に出てきた名前だ。
私はその時の話を思い出しながら、眼の前にいる彼の情報を頭の中で羅列していく。
風間将。経済学部の四年生。真ん中で分けたマッシュヘア、色黒で背が高く、筋肉質な身体つき。フットサルサークルに所属。親が企業の社長らしい。性格は支配的かつ横暴なうえ、かなりの女好きで自惚れ屋。女癖が相当悪いらしく、彼のせいで妊娠し、中絶させられた挙句に、自主退学に追い込まれた女子生徒も一人や二人ではないとのこと。自身がひどい浮気性のわりに女に対しては男と話すことすらも許さず、容赦なく女に手を上げ、何人かを病院送りにしたという噂もある。
私はうんざりして、それ以上思い出すのをやめる。そして小さいため息をついて、彼に向き直った。
「それで、風間先輩。私になにか御用でしょうか?」
「驚いた。都枡さんみたいな真面目な子でも冗談を言うんだね」
風間先輩はくすくすと笑い出し、気取った仕草で前髪をかき上げる。腕の厳つい時計が、品のない光沢を放っていた。
「私は冗談など言っていませんが?」
「本当は僕のこと知っていたくせに、知らないふりなんてしちゃって。ひょっとして照れてるのかな?」
話が噛み合っていない。照れている? なんのことだろう。
「あの、仰っている意味がわからないのですが」
「いや、都枡さんが以前から僕に気があるって後輩から聞いていたからさ、やっぱりこういうときは、男の方から出向くのが礼儀だと思ってね」
自然と眉根に皺がよる。この人は何を言っているのだろう。
「今日が僕の誕生日だって知ったから、メイクまでして、僕のことお祝いしてくれようとしたんだよね。聞いた話だと、どこかお店も予約しているらしいね? とても嬉しいよ」
「このお化粧も、お店の予約も、風間先輩のためにしたことではありません」
「もしかして、僕が先に君に会いに来て、サプライズを邪魔しちゃったことを怒っているのかな?」
私の中に風間先輩への反感と不快感がつのる。
「怒ってなどいません。サプライズなども計画しておりません。ただ事実を申し上げているだけです。そもそも私は貴方を知りませんし、貴方の事を好きではありません。その後輩の方の勘違いです。お引き取りください」
風間先輩の眼の端がぴくりと痙攣する。ようやく自分の勘違いだと気付いたようだ。
「ふーん。でも、じゃあなんで今日はそんなにおめかししているの? まさか、僕以外に好きな人がいるとか? どうせろくな男じゃないんでしょ?」
胸の中の不快感が怒りに変わってゆく。私はワンピースの裾を強く握っていた。
「それ、言う必要あります?」
そう言ったのは美紗貴ちゃんだった。
ランチプレートを持って風間先輩を見下ろす美紗貴ちゃんの眼には、明らかな憤りと軽蔑の色が浮かんでいた。
「あたしはこれから松子と昼食の時間なんです。そこ退いてもらえませ……」
「うるさいな。いま君とは話してないから」
風間先輩はそう言い、美紗貴ちゃんを突き飛ばした。彼女はバランスを崩して、勢いよく後方へと倒れ込む。ランチプレートの中身が床にぶちまけられる。
「美紗貴ちゃん!」私は立ち上がる。
「あはは、軽く押しただけなのに派手に転んだね。なに、か弱いアピール?」
風間先輩は愉快そうに笑い、足元に転がる小さなサラダボウルを軽く蹴った。その行動、彼の笑い声、腕時計の光沢感、その全てが私の感情を逆撫でする。
「美紗貴ちゃんに謝ってください!」
私は声を荒げた。いつの間にかカフェテリア内の全視線がこちらに向いていた。
「まあまあ、そう怒らないで。ちょっとふざけただけじゃん。ところで」
風間先輩の視線が私を捉える。彼の獲物を狙う蛇のような眼を見た瞬間、そのあまりのグロテスクな色合いに、身体が石のように硬直してしまう。
「都枡さんてすごい綺麗な黒髪だよね。触ってもいい?」
許可を得る気など微塵もないであろう風間先輩は、こちらに向け手を伸ばす。その動作はやけにスローモーションで、いつまでも覚めない悪夢を見ているような感覚に陥る。私は更に身を固くし、眼を閉じてしまった。
しかし、いくら待っても彼の手が私の髪に触れることはなかった。恐る恐る眼を開けてみると、風間先輩の腕は私の眼前で停止していた。彼は誰かに腕を掴まれていた。
風間先輩の腕を掴んでいたのは。
暮網先輩だった。
「彼女に」暮網先輩は、明らかに怒りのこもった低い声で言う。「触るな」
一瞬夢を見ているのかと思った。ちらりと見えた彼の瞳は私を痴漢から助けてくれたあの時と、同じ色をしていた。先輩がまた私を助けてくれた。
「なに。誰お前。ヒーロー気取り? 今どきだね」
風間先輩は気色ばんだ声で言う。暮網先輩は黙って腕を掴み続けている。
「そもそもお前、都枡さんのなんなの? あ、彼女のこと好きとか? それなら残念だけど希望はないよ。彼女の好きな人は僕なんだか……」
「別になんでもないけど、お前がここから消えてくれるなら、なんにでもなってやるよ。なんになろうか。友だち? 恋人? お望みなら家族にでもなろうか?」
暮網先輩は被せるようにそう言った。
「お前、僕のこと舐めてるだろ」
風間先輩の額に青筋が浮かんだ瞬間、彼は暮網先輩の胸ぐらを掴み、拳を振り上げる。
「やめっ……」
飛び出そうとする私の肩を誰かの手が掴み、その場に押しとどめる。
「いーよぉ。そのまま殴っちゃって。ガッといっちゃって」
何を言ってるのだろうと思って振り返ると、そこには私の肩に手を置き、スマホで動画を撮影している白井先輩の姿があった。
白井先輩は一瞬私を見ると、なにもするなと眼で合図を送ってくる。私は黙って頷き、その場にとどまった。風間先輩は拳を振り上げたままの状態で停止している。
「あれ? どうした、殴らないのか? 色んな意味で有名人の風間将の暴力行為なんて、みんなめっちゃくちゃ面白がると思うんだけどな?」
白井先輩は嘲笑するように言うが、その眼はまったく笑っていなかった。
「……ふう。さすがに、暴力はまずいよね」
風間先輩はそう言い、暮網先輩の胸元から手を離すと、逃げるように出口に向けて歩き出す。すれ違う瞬間、彼は私の耳元で「またね」と囁いた。頭のてっぺんから、つま先まで鳥肌が走り抜ける。
「ごめん。服が伸びた」
暮網先輩が白井先輩に言う。
「いや、こっちこそ、煽って悪かったな」
「あの場ではいい判断だったと思うけどね。まあ、痛いのは嫌だけど」
「カフェテリアに入ったら急に飛び出すからびっくりしたぞ。ま、大事なく追っ払えて良かったけどな」
そう言うと白井先輩は「大丈夫?」と美紗貴ちゃんを助け起こす。暮網先輩は床に散らばったランチプレートの片付けを始めていた。
今しかないと思い、私は意を決して先輩に話しかける。
「あ、あの、ありがとう、ございました」
「大丈夫?」
暮網先輩は顔を上げずに、呟くように言った。
「は、はいっ」
上擦った声が出る。緊張でうまく話せない。でも、ここで萎縮するわけにはいかない。
「私、都枡松子と申します。実は以前にも先輩に助けていただいたことがあって……」
なるべくゆっくりと話すことを心掛けたが、想定の倍以上の速さで言葉が出てしまう。
「以前?」
そのとき初めて先輩の顔が上がり、少しだけ眼が合った。呼吸が止まり、心臓が破裂しそうになる。今まで生きてきて、こんなに緊張をしたことはなかった。
暮網先輩は、虚な眼で私の顔を見る。どうやら心当たりがないようだった。
「去年の春頃、電車で……」私は拙い補足を付け足した。
「電車……ああ」
先輩は思い出した様子だったが、再び顔を下げ、掃除を再開してしまう。
「その節は本当にありがとうございました。あの、それで、是非今回と、あのときのお礼をしたいのですが、よかったら今晩、お食事など如何でしょうか?」
言った。遂に言ってしまった。緊張のあまり心臓の鼓動が耳元で鳴っているように感じる。
「行かない」
先輩は間髪入れずに言った。
「え……?」
「そもそも、オレが勝手にやったことだから」
ちょうど掃除を終えた先輩は、それだけ言うと、振り返ることもなくカフェテリアを出ていってしまう。
行かない。その四文字の意味が、私の鼓膜を震わせ、まるで毒のように私の側頭葉上部に到達する。
言葉の意味を理解した瞬間、私の眼の前は真っ暗になった。
眼の前にあったのは見慣れない天井だった。
なぜそんなものが見えるのか私は理解できなかった。
「松子、目が覚めた?」
美紗貴ちゃんの声がした。彼女の声は不安そうな響きを帯びている。
声のする方向へ顔を向ける。そのとき初めて私はベッドに横になっていることに気が付いた。
「ここは?」
美紗貴ちゃんは安心した様子で微笑んだ。
「ここは大学の医務室。あんたカフェテリアで卒倒したんだよ」
「卒倒……ああ」
夢じゃなかった。私は先輩に食事の誘いを断られたんだ。
私は心のどこかで、失敗することはないと思っていた。メイクもファッションもコンタクトも頑張った。美紗貴ちゃんにかわいいと言ってもらえた。これだけ努力したのだから、きっと先輩は食事の誘いを受けてくれると、努力は報われると、心の中で期待していた。でも、それは違った。先輩は私になんて、なんの興味もなかった。
暗い気持ちが心を満たしていく。
「美紗貴ちゃん。私のカバンはありますか?」
「カバン? ここにあるけど」
私はカバンを受け取ると、メイク落としシートを取り出し、顔を拭い始める。
「あんた、何してるの?」
「はあ、すっきりしました。メイクって初めてしましたが、結構息苦しくなるんですね。新しい発見です」
私は努めて笑顔を作り、そう口にした。ちゃんと笑えているだろうか。
「松子、無理しないで」
美紗貴ちゃんは少し悲しそうに笑い、私の頭を撫でてくる。
うまく笑えてなかったみたいだ。きっと彼女に変な虚勢は通じない。私は諦めて、思っていることを口に出す。
「恋って難しいですね」
「そうだね。難しいね。でも、言えて偉かったよ」
美紗貴ちゃんは優しい声色で私の頭を撫で続ける。気を抜いたら泣いてしまいそうだった。しかし、そのとき視界に違和感を感じる。
違和感の正体は、彼女の腕に巻かれた包帯だった。
「美紗貴ちゃん、その腕どうしたんですか?」
「ああこれ? さっき転んだときにね。でも骨も折れてないみたいだし、大丈夫だよ」
美紗貴ちゃんは気まずそうに腕を撫で付ける。
「すみません……」
「なんであんたが謝るのよ。悪いのはどう考えても風間先輩じゃん。あのやろお」
みさきちゃんは憤慨した様子で宙を殴りつける。
そのとき、医務室のドアがノックされる。美紗貴ちゃんが応じ、入室してきたのは白井先輩だった。
「ああ、都枡ちゃん。眼が覚めたんだな。良かった」
白井先輩はそう言って私と美紗貴ちゃんにペットボトルの水を差し出す。
「ありがとうございます」
「三木ちゃんも、腕大丈夫?」
「はい。治療してくださって、ありがとうございました」
「大丈夫大丈夫。二人とも災難だったね」
白井先輩はおもむろにベッドの横に腰をおろした。
「あと、浩のこと悪かったな」
白井先輩は神妙な面持ちで言った。
「いえ、仕方ないです」私はうつむきながら言う。
「でも、それじゃ納得しないだろ?」
「え?」
「好きなんだろ? あいつのこと」
「え? え? え? どうして?」私は狼狽える。
「そんなん見てりゃわかるよ」
白井先輩は愉快そうに笑う。隣で美紗貴ちゃんもくすくすと笑っていた。うう、恥ずかしい。
「このこと、暮網先輩は……?」
「知らない。というか、言っても信じねえだろうよ」
「そう、ですか」
「まあ、あいつにも色々あるが、あの態度はねえよな。俺からもよく言っておく。お前は女心がわからなさすぎだってな」
白井先輩は伸びをしながら立ち上がる。先輩は去り際、何かあったら連絡してと言って、連絡先を教えてくれた。
「素敵な人だね。白井先輩」
美紗貴ちゃんが言う。私も心からそう思った。
「さて、午後の講義もあるから、あたしたちもそろそろ行きますか」
「あ、美紗貴ちゃん」
立ち上がった美紗貴ちゃんの背中に向けて私は声をかける。
「私、少し具合が悪いので、今日はもう帰ります」
「そっか、わかった。じゃあまた明日ね。何かあったら連絡しなよ」
美紗貴ちゃんはそれ以上はなにも言わずに医務室を後にする。気を遣わせてしまった。と、申し訳ない気持ちになる。
医務室はしんと静まりかえっている。
「生まれて初めてサボっちゃいました」
私はぼうっと天井を見上げながら呟く。
このとき、まだメイク落としシートが手の中にあることに気付いた。ファンデーションやアイシャドウが、まるでマーブル模様みたいに無邪気にこびりついている。
不意に視界が波打つ。
「う……うう……」
先輩が私に興味がなかったとしても、冷たくあしらわれたとしても、それでも、私はやっぱり暮網先輩が好きだ。
そう考えれば考えるほど、自然と涙が溢れてくる。胸を締め付けるこの感情がなんという名前なのはわからない。でも、今はこの感情に身を任せてみようと思った。
私は膝を抱えて少しだけ泣いた。
最初のコメントを投稿しよう!