夏休みの終わり、異世界転生

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女神は「あれ、珍しいな」と言いながらファックスの上に積もった書類をどける。ファイルボックスに引っかかって皺になりながら排出されたコピー用紙を摘んでぺらりとめくり、顔の前に持って読み出した。こちらから内容は見えないが、薄っぺらなコピー用紙の裏側にほんのりと透ける様子から察するには、何か文章が書いてあるようだ。女神の金色の眉がぴくりと動いた。 「それ何?」 「今、下界にいる天使ちゃんから緊急のお知らせが来たんだけど。君はどうやら、身体が蘇生しそうらしい。しかも五体満足らしいし。ここまで来てもらったけど、やっぱり生き返ってもらうよ。良かった良かった。こんなの超久しぶりだわ」 「え? そんな……」  飛路都は女神の言葉に、高揚していた心がずんと一気に重くなったのを感じた。 「そんな? 死にたかったの?」 「……」  違う、とはとても言えなかった飛路都は黙って俯いた。はあ、と女神の溜息が聞こえた。飛路都はこの名前のせいで、同じ名前の陽キャ数人から激しいからかいの対象になっていた。  いかにこの名前が素敵か、どんな思いを込めたかをインスタで語り散らしている両親には、絶対に相談出来ないと思った。この名前が嫌だ、と言えば両親が飛路都を糾弾するのは今までの彼ら見ていれば明らかだった。  飛路都の机に「消えろ」と書かれた翌日が夏休み前最後の登校日で、実際に飛路都は、学校からスッと消えたような気持ちになっていた。でも、夏休みには終わりがある。  夏休みの最後の日、明日から学校に行くくらいなら死にたい。でも死ぬのは怖い。そう思っていたところに、思いも寄らずに異世界転生しそうになっている。これは飛路都が人生をやり直すための千載一遇のチャンスだと思ったのだ。 「ここに来る君くらいの年の子ってちょっとだけ嬉しそうな子、たまにいるんだよね。本当に心配だなあ」  独り言のように女神は言った。 (また、元の世界に戻るのか。また……)  飛路都は自分の目にぎゅうっと涙が集結して来たのを感じ、目を伏せた。鼻がつーんと痛くなる。女神は飛路都を見て目を細めた。 「飛路都くん。さっき来たファックスには君が本当に死ぬ時期と、そこに至る君の未来の話がざっくり書いてある。ほんとは駄目なんだけど、少しだけ教えてあげるよ。はっきり言うのは気の毒かもしれないけど、君には特に特出した才能はない。運動神経は普通。勉強は中の上くらい。大学に進学して就職。平凡に生き、平凡に死ぬ。まあ、そんなこと言っても逆効果かもね。人生が平凡であることの幸せを噛みしめるには、君はまだ若すぎるね」 「ほら。そんな奴は生きてても、しょうがないじゃん。帰りたくないよ」  飛路都は涙をごしごしと擦り、ずるずると鼻を啜ってから半ば投げやりに女神に言い返した。 「でもね、女神のあたしが本当に、強く生きて欲しい、力になりたいと願うのは、君みたいな人達だ。ただ毎日を、もがきながら必死で生きる人。ここを通り抜ける人たちを、沢山見てきた。これまで生まれて死んだ人間全員だからね。一千億人ちょいかな。それで、確信したことがある。世界を良くするのは一人のヒーローじゃない。それ以外の、市井の人々だ。そういう人がいないと世界は回らない。だからあたしは君にも、生きてほしいよ」 「……」  飛路都は女神の励ましに何と返したらいいか分からず、ただ、俯いたままで鼻を啜った。真っ白い虚無の床に自分の鼻水だか涙だか分からない液体がぼたぼたと滴っていた。飛路都は女神の壮大な励ましをそのまま受け取れるほどの大人になれていないと自覚し、胸が締め付けられた。女神は続ける。 「勿論知ってると思うけど、人間は全員、等しく死ぬ。そしてその前に全員が絶対にここを通るんだよ。だから飛路都くんはいつかもう一度ここに来てあたしに会う。ここに二回来れた超超超レアな君は次来た時に、生きてみた感想を教えてよ。結局クソオブクソだったとか、思ったよりはそれなりだった、とかさ。いつでもいい。君がどうしても死にたくなって、ここに来るのがこのファックスに書いてある時よりずっと早まったりしても。あたしはそれを絶対に咎めたりしない」  飛路都はすぐに答えられなくて、もう一度鼻をずるりと啜った。確かにここで死ななくても、飛路都はどこかで絶対に死ぬだろう。そんなことは分かっている。でも今死にたいから悩んでいるのだ。しかし飛路都は死ななかった。死ねなかった。  クソオブクソの世界をもう一度生きて、また死にたくなったら今度は本当に、死ぬのかもしれない。でも、飛路都の死にたい気持ちを否定しないでくれた女神の言葉は、ほんの少しだけ、しかし確実に、飛路都の心を軽くしてくれた。どちらにしろ生きないといけない。飛路都は意を決して大きく息を吸った。 「……それだったら、出来ると思う」  飛路都は何とか顔を上げ、目を擦りながら言った。 「おっけ。いいじゃんいいじゃん。報告待ってるよーん」  女神が笑顔でそう答えるとコピー用紙を破いた。その裂け目から真っ白な光が放たれ飛路都を包み込む。女神も、事務机も、全部が虚無の白に溶けて見えなくなる。その光に包まれ、飛路都は女神の言葉の不思議な温かさを感じながら、意識がどこかへ溶けていくのを感じた。
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