夏休みの終わり、異世界転生

1/2
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
「来たね」 「え……?」  菅波飛路都がふと気がつくと、眼の前に事務机に頬杖を付いた若い女がいた。 (僕、図書館の帰り道を歩いてた筈じゃ…)  夏休み最終日の絶望を胸にしながら、ひたすら区の図書館で時間を潰していた。閉館時間に追い立てられるように図書館を出た帰り道の、夏の夕暮れの交差点の景色までは覚えている。そこから先はプツリと途切れている。状況の飲み込めない飛路都は自分の身体を確かめる。服装は紺のポロシャツにユニクロのジーンズ。飛路都の着ていた服のままだ。何も変わらない。  飛路都は自分の周りを見回した。女と事務机以外は、空間の全てが真っ白かった。虚無が目に見える形で存在するならこういう見た目かもしれない。白は白でも雪景色とは違って何の質感も感じられない、ひたすらに、ただの白だ。 「おーい。聞こえてる? あたしそろそろ定時だからさ。手短に行くよ」  状況が飲み込めずに戸惑う飛路都に、女は事もなさげにこちらに向かって言った。飛路都は改めて、目線を目の前に女に向けた。三十歳過ぎくらいと思しき女は、事務机の上の閉じられたノートパソコンの上に気だるそうに頬杖をついている。机の上には蛍光色の付箋が所々に付けられた大量の書類とファイルボックスが並ぶ。机の一番端に祖母の家にあるようなぼやけた灰色の家庭用ファックスが書類に埋もれている。お世辞にも整理整頓が上手いとは言えない乱雑さだ。飛路都の通う中学校の職員室に並ぶ教師達の机によく似ていて、見慣れた景色だ。しかしその一方で圧倒的な奇妙さを放つのは、女の風貌だ。  緩くうねりながら腰まで伸びた明るい金髪に、抜けた青空のような鮮やかさの虹彩。日本人の自分とはとても比にならない鼻梁の高さと抜けるような白さの肌。明らかに欧米人だ。女は真珠色の布をたっぷりとドレープさせたシンプルなドレスを身に纏っている。美術の教科書に載っていたサモトラケのニケがこんな感じの服を着ていた。 「菅浪飛路都くん。十四才五ヶ月。間違い無いね」 「……はい」  女の言葉に「何で日本語?」と心の中でつっこみを入れながら、とりあえず返事をする。言われたことは間違っていない。菅浪飛路都。すがなみひろと。両親が付けた自分の名前だ。その名前はたまごとひよこマークの出版社から出た「はばたく!男の子のすてきな名前辞典」の「やさしい人に育つ名前★」ページの一番上から取られた。  飛路都が生まれた翌年、「ひろと」は男の子の人気の名前ランキングで堂々の一位にランクインした。十四年後、「ひろと」が同学年に十二人もいることになると両親は考えただろうか?  同じ中二の「ひろと」の中で、飛路都は「最も画数の多いひろと」だ。なんかかっこいいからと無駄なことをする。  両親は十年の妊活の末にやっと授かった飛路都に自分達の諦めた夢という夢を盛りに盛りまくった子育てをしている。母親は自分の名前が古臭く大嫌いらしく、時代にあった希望と未来と若さに溢れた名前にしたらしい。飛路都だって歳を取ることになぜ気がつかなかったのだろう。  何にせよ、飛路都が両親に口出しするのは固く禁じられている。彼らは自分達のために子育てをしており、飛路都のためではないのだ。子育てに絶対に自信を持つ彼らに従わない選択肢は無い。いつかもう少しだけでも、自分のことをちゃんと見て欲しいと思う。もし、もしも、ちゃんと見てくれていたら、今、自分は夏休み最終日にこんな絶望を抱えずに済んだのかもしれない。飛路都は小さく溜息をついた。  しかし、ここは一体何処なのだろう。状況は全く飲み込めないが、飛路都の知る状況で一番近かったのは、先週の台湾への家族旅行の空港でのイミグレーションだ。それは飛路都にとって記念すべき初の海外旅行であったが、苦い思い出となって飛路都の心に沈み込んでいる。両親が初日にガイドブック巻頭に掲載された長蛇の列の小籠包屋に並ぶか並ばないかで大喧嘩し、その後ずっとぎくしゃくしたせいだ。  国内ならまだしも海外では両親のどちらかに付かないと思うように行動できず、二人の不仲の間で何処にも逃げ場のない台北での四日間はただただ苦痛でしかなかった。台湾の人達が皆気さくで優しかったことがせめてもの救いだった。せっかくの受験前最後の夏休みであったが両親の「家族の思い出づくり」への強制参加要請の前では飛路都の意見は存在しないに等しい。飛路都は両親に隠れて彼らのインスタアカウントをそっと見ながら、台北の街を歩いた。家族の仲のよさで映えるために両親が自分を旅行に連れてきていることは薄々分かっていたが、気がつきたくなかった。こちらの様子を伺いつつ、女が口を開いた。 「君は夏休み最後の日、夏期講習の帰り道で歩道に突っ込んで来た軽トラックに轢かれたんだ」 「え」  聞き覚えしかないシチュエーションだ。飛路都は女の言葉に矢継ぎ早に答えた。 「僕、死んだんだ。で、お姉さんは女神だ」 「理解早すぎじゃない? 助かるけど」  女改め女神は片眉を釣り上げ、飛路都にあからさまに不審な表情を向けて言った。 「異世界転生もののラノベで何回も読んだよ。主人公がトラックに跳ねられたり自殺したりして、気がついたら自分の運命を変えてくれる女神に会って、チート能力を身につけて異世界に転生するんだ」 「え? そこまで知られてんの? まあ、この世に人間が生まれてたら大分経つからね。死に際の景色を見たのに生き返っちゃった人も合計したら相当な数だろうから、そういう人が生きてる人に伝えちゃったんだろうね」  女神は相変わらず机に頬杖をついたまま、ため息混じりに言った。 「しかし、青少年が好んで読む本の冒頭が死で始まるものばっかりっていうのがあたしは割と心配だな。みんなそんなに死にたいの? 大丈夫なのか? 君の生きてた世界は」 「正直分からない。大丈夫じゃないかもしれない」  女神は返事をする代わりに、大げさに肩をすくめた。 「で、僕は転生できるの? 異世界に」  飛路都は興奮を隠しきれずに女神に問いかけた。クソオブクソの両親を捨てて違う親の元に転生出来るなんて、どう考えても最高すぎる。飛路都の目の輝きを感じたらしい女神はすっと真顔に戻り、口を開いた。 「君の夢をぶち壊して悪いんだけど、残念ながら、その辺はフィクションだね。異世界なんてのは無い。有るのは君が生きた世界における過去と未来だけだ」 「……そっか」  流石に異世界転生はラノベの中だけの話か。現実はそんなところだろうが、期待した分の反動は飛路都の心に重くのしかかった。 「でもさ。一応、希望があればこの世界でならどの時代のどの場所にも生まれ変わらせることが出来るよ。生まれ変わる年齢もご希望どおり。日本の中学生を中世ヨーロッパにでも転生させれば、それはもう異世界みたいなもんだろう? ただ、そういうの希望する人はたまにいるけど、流行り病やら戦争やらに巻き込まれて割とすぐ死んじゃうみたいだね。チート能力とか無いから。世の中そう甘くない」  その時卓上のファックスが急に起動し、ががががと音を立ててコピー用紙を吐き出し始めた。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!