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きっかけは、些細な一言だった。  「お前、小柳ひなたとよく話してるよな。好きなんじゃねーの?」  そいつは俺より年上で、横柄な態度が鼻につく、嫌な奴だった。少なくとも俺より元気そうに見えた。  同じ病棟に入院している以上、そいつともどこかで必ず顔を合わせる。すれ違いざまに吐き捨てられる嫌味を聞き流すのが習慣だったのに、その時言われた言葉は何故か俺の心にぐさりと突き刺さった。  俺はその日から、何となくひなたを避けるようになっていく。  今ならそんなものは下らないプライドだと言えるのに、あの頃の俺にとって、揶揄われる自分が許せなかった。  その頃ひなたがどんな顔をしていたのか思い出せない。俺は自室に引きこもり、訪ねてきたひなたにもあれこれ嘘を言って追い返した。  そして気がつくと、俺の治療は終わっていた。    退院の日、俺は準備や手続きに追われる親を待合室で待っていた。既に学校のことで頭が一杯になっていた俺は、ひなたに退院の件を話す事さえ忘れていた。  ふと顔を上げると、どこかで見た女性が俺の名前を呼んだ。ひなたの母親だった。  「退院おめでとう。最近見かけないから心配してたんだけど、元気になったのね」    馬鹿な俺はその時やっと、ひなたに何も話していない事を思い出し慌てた。別に喧嘩した訳でもないし、ただ忙しくて会えてないだけですと下手な言い訳をしようとする俺に、ひなたの母は屈んで俺と目線を合わせた。  「いいのよ、もう。あなたにこんな事を言っていいかわからないけど……どうか、どうか、あの子の、ひなたの分まで生きて頂戴ね」  俺の手を一度だけ握り締めて、ひなたの母は去っていった。その手は痩せていた。  言葉の意味がわかって、でも理解したくなくて、ただぐるぐると頭の中で涙声が響いている。    ひなたの分まで。  最後に会った時、ひなたは具合が悪そうだった。それからどうなった?  俺は確かめる勇気を持てないまま、ひたすら待合室の床を睨んでいた。  そしてその事を親にも伝えず、退院した。  俺は夏休みの1ヶ月と2週間だけ休んで学校に復帰した。友達からは少し長い夏休みを揶揄われたくらいで、後は何事も無かったかのように元の生活へ戻っていった。  ──もう、15年以上前の話だ。朧げな記憶は所々擦り切れていて、本当にあった事だったのかと疑いたくなるくらい現実感が無い。  子供じみた思い込みで傷つけた少女がいた事を忘れたかった。  少女がその後どうなったのか、知るのが怖かった。  花火を見る約束も何もかも放り出して平凡な人生へ戻っていく。そうして俺は小柳ひなたという少女を記憶の隅に追いやり、忘れた。
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