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「ねえ、なんで冬花ちゃんは何も言わなかったの?」
こぼした料理を片付けた後、私は着替えをするために体操服を持って更衣室に行った。水が染みたのなら自然乾燥に任せれば良いが、匂いのするものが染みたとなると流石に着替える必要がある。
朝宮は片付けを手伝ってくれた。彼女は自分の昼食を別の誰かに無理矢理渡したらしい。 片付け中、彼女のお腹がよく鳴っていた。彼女は恥ずかしがっていたが、私としては空気が和むためありがたかった。
そして、なぜか更衣室の着替えすらも朝宮は付き添ってくれた。どうしてかと思ったが、彼女の疑問を聞いて理解できた。
先ほどの一連の様子をずっと不思議に思っていたのだろう。
「言うって何を?」
「さっき冬花ちゃんがこけたのって金竜さんが足引っ掛けたからだよね?」
惚けてみたが、朝宮はすぐに別の疑問を提示した。さっきは特殊疑問文で聞いてくれたのに今度は普通の疑問文で聞いてきた。これじゃ、惚けるのは難しそうだ。
「朝宮がそう見えたんだったら、そうかもね」
「冬花ちゃんは違うの?」
濁した回答が気に入らなかったのか、問い詰めるように朝宮が再び質問する。
制服を脱ぎ、下着姿になると体操服を取り出して着替える。幸い、ズボンの尻の部分が破れているということはなかった。今回の犯行は衝動的によるものだったのだろう。テストの成績が自分よりも上だったことが気に入らなかったのだろう。
「いや、違わないよ。私も金竜に足を引っ掛けられたと思ってる」
「じゃあ、先生に相談したほうがいいよ。今朝濡れてたのも金竜さんのせいだよね?」
「無駄だよ。私たちがそう見えていても、他のみんなが、私が金竜の足を蹴ったと思ってるから」
着替えを終えると後ろにいた朝宮に向き合った。午後の授業が始まるまでは教室には戻りたくない。だから時間のある限り、ここで暇を潰そうと思った。
「みんなって……でも、あれは絶対に金竜さんが足を……」
「事実がそうであっても、当事者以外のみんなが違う事実を口にすれば、そっちの事実が正しいことになる。みんながみんな、『1+1=3』って言えば『1+1=3』なの」
「そんなの間違ってるよ。だって、『1+1=2』だもん。3にはならない」
「間違ってないよ。実際、『1+1=2』であるのは1の次の数を2と定義したからにすぎない。こことは別の世界があって、そこでは1の次の数を3と定義していたなら『1+1=3』になる。定義はあくまで共通認識であって、絶対的な権限はない」
「……でも、みんなどうして金竜さんの方に加担するの」
「簡単だよ。それがこの社会を生きる上で一番合理的なことだから。金竜さんの親は政治家なの。他の生徒の親は金竜さんの親にお世話になっている。だから立場上、彼女に逆らうことはできない」
定義が変われば、定理は変わる。みんな、金竜の親の力によって、本能的に定義を捻じ曲げられているのだ。
「だから、朝宮も今回の件は、私が金竜の足を蹴ったと思っていて。それが朝宮にとっても、朝宮の両親にとっても、都合のいいことだから」
時計を見ると、そろそろ次の授業が始まる時間だった。
私は制服を体操着袋の中にしまって、更衣室のドアへと歩いていく。
「冬花ちゃんはそれで平気なの?」
ドアに手をかけると後ろから朝宮がそんなことを聞いてきた。
平気かどうか、そんなのは決まっている。
「五年間もされてきたことだからね。もう慣れた。それにあと一年ちょっと我慢すれば終わることだから」
そう言って、ドアを開けて更衣室を出た。言葉を紡いでいる間、朝宮の顔を見ることはできなかった。
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