入試日 成瀬君の場合

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入試日 成瀬君の場合

成瀬蓮は自分の部屋の姿見の前で身だしなみをチェックした後、意気込んだ。 今日は成瀬の第一希望、県立大越高等学校の入試の日なのだ。 大越高校は成瀬の家からも割と近いし、中学の教師たちからも勧められた県内一の進学校だった。 成瀬は中学でも成績がトップクラスなので、この大越高校にも合格間違いないだろうと言われていたが、当日には何があるかわからない。 彼は万全な状態で事件に挑もうとしていた。 部屋を出ると、真っ先に妹の部屋の扉をノックした。 「葵! 早くしないと遅刻するよ。朝ごはんは用意しておいたから、食パンは自分で焼いて食べてね」 部屋の向こうから眠たそうな声で返事があった。 本当に大丈夫だろうかと成瀬は心配になる。 そしてもう一つの部屋、両親の寝室の扉の前に立つ。 両親の寝室と言っても、ここ最近ずっと父親は帰ってきてはいないので、使っているのは母親の杏子だけだ。 今朝も杏子はクラブで飲み潰れて帰ってきているので昼頃まで起きないだろう。 そう思いながらも、成瀬は小さく扉をノックして、中を覗いて見た。 案の定、杏子は下着姿のままベッドに潰れるようにして寝ていた。 「お母さん、今日受験だから、早めに行ってくるね」 杏子からの返事は当然ない。 もう、すっかりこんな生活には慣れてしまったが、息子の受験日ぐらいは顔を見せて一言何か言って欲しかった。 成瀬は諦めて静かに扉を閉める。 行ってきますと言って成瀬は玄関の扉を開けた。 今日も空には雲がかかり、冷たい風が吹き荒れている。 成瀬は寒いと小声で言って、マフラーに顔を埋めた。 バス停に向かい、指定のバスに乗ると15分ぐらいで目的の学校に着いた。 既に多くの学生たちが校内に向かっている。 成瀬もそれに合わせるように歩き出した。 校門の前では受験生の親が子供を労って見送りに来ていた。 それを横目で少し羨ましく感じながらも、成瀬は再びマフラーに顔を埋めた。 気が付けば、目の前に人が倒れていた。 恐らく成瀬と同じ受験生だろう。 手には受験票を握りしめ、息を荒くしている。 緊張しすぎて失神したわけではなさそうだ。 顔が真っ赤で、吐く息も熱そうだったからだ。 そんな彼に成瀬はしゃがみ込んで話しかける。 「君大丈夫? 係の人を呼んでこようか?」 その瞬間、その少年と成瀬は目が合った。 完全に目が血走っていて怖い。 「い……いやだ……。ここで止められたら……試験……受けられない……」 彼はしゃべるのも必死と言う感じであった。 高校受験でここまで命懸けの人を成瀬は初めて見た。 わかったと言って、成瀬は係の人を呼ぶのをやめて、彼に肩を貸すことにした。 「立てる?」 彼の腕を持ち上げると、彼はゆっくり立ち上がった。 立ち上がるだけでフラフラしている。 この状態で彼は試験など受けられるのだろうかと心配になったが、今はとりあえず彼を席に誘導するのが先だと思った。 入り口の前で肩に担がれているその少年を係員の人が見つけて声をかけたが、少年の目があまりに恐ろしかったので、小さな悲鳴を上げるだけでそれ以上何もしてこなかった。 成瀬はその係員に小さくお辞儀をした後、そのまま教室に向かった。 成瀬は少年の持っていた受験票を目印に教室を探す。 彼の教室は成瀬の教室の隣だった。 指定の机を見つけると彼をそこに座らせた。 そして、心配そうに声をかける。 「本当に大丈夫? 君、死んだりしない?」 少年は明らかに意識が朦朧とした状態で、必死に笑顔を作り、親指を立てた。 成瀬は自分に出来るのはここまでだと思い、彼をその場において自分の教室に向かうことにした。 教室に入り、指定の席に座ると鞄から筆記用具を取り出した。 すでに教室に入っている生徒たちはギリギリまで参考書に目を通しているようだった。 余裕そうにしていたのは成瀬の前にいる眼鏡をかけている少年と、斜め後ろのボブカットの大人びた少女だけだ。 後、角の方で参考書を読むふりをして、弁当を食っている生徒もいた。 あれは朝ご飯だろうかと成瀬は不思議に感じていた。 そして、試験5分前。 教室には試験監督の先生が立っていて、試験問題も教壇の上に並べられていた。 いよいよ、開始するというタイミングにも関わらず、前の方に空いた席を見つけた。 受験を辞退したのか、それとも遅れているのかはわからなかったが、そういう人もいるのだなと成瀬は一人、その空いた席を見つめていた。 すると、いきなり前側の扉が勢いよく開き、バンっと大きな音を鳴らす。 教室にいる生徒たちのほとんどがその音にびっくりしていた。 そこに立っていたのは、ダッフルコートを着て、スカートの下にジャージを履いた少女だった。 険しい顔をして、扉の前に立っている。 それを見つけた教師が彼女に注意を促していた。 「君、扉はもう少しゆっくりと開けなさい! それと開始5分前過ぎてますよ。試験前は早めに着席して、直ぐに試験に受けられるように準備しておくこと」 教師がそう言うと、少女は露骨にちっと舌打ちして教室に入っていった。 目の前の教師がものすごい剣幕で怒っている。 しかし、少女は全く気にすることなく、その空いた席に机を無造作に鞄を置き、そこから筆記用具を取り出した。 筆記用具と言ってもえんぴつ1本と使い古された消しゴム一つだけだ。 「ほら、鞄も閉まって!!」 教師は少女にぷりぷり怒りながら注意をする。 少女は黙って鞄を片付けた。 そして、合図が鳴ると試験が始まる。 成瀬たちは教師に配られた試験問題を前からもらい、後ろに回しながら配った。 そして、教師の合図があるまでは伏せておいておく。 「では開始してください」 その言葉で一斉に生徒たちが問題用紙を翻して、解答用紙に名前を書き、試験問題に目を通していった。 さすが、県内一の難関校。 試験問題はなかなか難しかった。 しかし、成瀬はその問題を指定時間の半分の時間で解き、見直しを始めようとしていた。 一瞬だけ、目線を前に向けると既に試験を終わらせて、伏せている生徒がいた。 あのギリギリで入って来たジャージの少女だ。 試験が終わって寝ているのか、諦めて寝ているのかわからなかったが、彼女は既に爆睡している。 ついでに目の前の少年も一通り終わって、見直しもだいたい終わっているようだった。 皆解くのが早いんだなと感心する。 成瀬が問題を見直した後、10分ぐらいの余裕があった。 殆どの生徒がまだ試験問題を懸命に解いているようだったが、ジャージの少女、目の前の眼鏡少年、そして、斜め後ろのボブカットの少女は既に終わって退屈そうにしていた。 チャイムが鳴ると、教師の指示で解答用紙を机の端に置くように指示される。 それを一つずつ教師が回収しに回ってくるのだ。 それが終わると、10分間の休憩に入った。 他の生徒達は問題用紙を見ながら、知り合いの席に言ってどうだったか騒いでいる。 成瀬はその時、話しかける知り合いがいなかったので、仕方なく暇つぶしに持ってきた小説を開いて読み始めた。 すると、斜め後ろの女子生徒に声をかけられる。 「あんたって余裕があるのね。さっきも問題、半分の時間で終わってたでしょう?」 その女子生徒は成瀬の事をよく見ているようだった。 成瀬は軽く笑って答える。 「そうだね。でも、君も結構時間余らせてたでしょ?」 「私は数学得意だから。それに、開始して約15分で終わらせた強者もいたわよ」 「15分で?」 成瀬もそれにはさすがに驚いていた。 あの問題量で15分は早い。 解答時間は60分。早くても30分はかかるはずだ。 成瀬は誰だろうと思い、目の前の少年を指さした。 確か、彼は成瀬よりも早く解答し終わっていた。 しかし、少女は首を振る。 「ギリギリで教室に入って来た奴。あいつ、開始してから15分後には伏せて寝てたわよ。見直しとかしてなかったけど、解答自体は全て解いてたみたい」 その少女の事も驚きだが、試験中にそこまで他人の事が見れるこの少女もすごいと思った。 恐らく彼女にとってこの試験は余裕なのだろう。 そう会話している間に再び試験監督の新しい教師が来て、席に戻るように指示した。 周りの生徒達も指示に従って席に戻る。 そして、試験は再開された。 結局、あのジャージの彼女は全教科15分で全て解き終えていた。 そして、残りの45分間は全て爆睡していた。 この緊張の高まる試験会場で爆睡出来る彼女に成瀬は感心させられる。 全ての試験が終わると、それぞれ席を立って教室を出て行った。 気が付けば、ジャージの少女も眼鏡の少年も、あの話しかけてきたボブカットの少女も既に教室からいなくなっていた。 成瀬も荷物をまとめ、教室を出る。 今朝の事を思い出して、念のために隣のクラスを覗いてみた。 校門前の道で倒れていた少年がいた教室だった。 少年はまだ席に座っていた。 座っていたというより、机の上でばてていた。 もう完全に魂が抜けていて、一瞬本気で死んだのかと思った。 成瀬は少年に近付き、声をかけた。 「大丈夫?」 彼は顔を机に乗せたまま、拳を天井にかざした。 「我が生涯に一片の悔いなし」 「君の人生、高校受験で終わらせて本当に悔いないの?」 成瀬は首をかしげて質問した。 すると少年は顔を上げて必死に訴えてくる。 その目には涙が溢れていた。 「なわけないでしょ!! 視界がぼんやりして問題も良く読めないし、とにかく思いつく単語ひたすら回答欄に埋めたよ! 悔いだらけだよ、俺の人生!!」 あまりの少年の勢いに成瀬も押される。 「まあまあ、ひとまず試験は終わったんだし、後は結果を待つしかないよ」 成瀬は少年にそう優しく声をかけた。 そして、フラフラの彼の為に再び肩を貸して、教室を出て行った。 成瀬と少年が校門の前まで来ると目の前には高級外車と威厳たっぷりの女性が立っていた。 彼女を見た瞬間、少年の顔は真っ青になる。 そして、その女性は少年の前にヒールをカツカツ鳴らしながら足早に近づいて来て、そのまま少年の頬に壮大な平手打ちをくらわしていた。 少年はその勢いで道の端まで飛ばされる。 成瀬はそれを唖然と見ているしかなかった。 「このバカ息子!! 大事な受験の日に風邪を引く馬鹿がどこにいますか!?」 病人と認識しているのなら、もう少し手加減してあげてもいいのではないかと成瀬は思っていた。 そして、女性は乱暴に少年の腕を掴んで、車の方へ引きずって行く。 「医者の息子が風邪を引くなんて恥ずかしい! 家に帰るまでにその根性、この母が叩き直してあげます!!」 彼女はそう叫んで、少年を車に詰め込んだ。 なんてスパルタ教育なんだとその光景を見ながら成瀬は思った。 そして、それは嵐のように過ぎ去ったのである。 成瀬は校門を出て、深呼吸をした。 そして家に帰る前にスーパーに寄って今晩のおかずを買うことに決めた。
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