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「葵、行ってきます」
決して分厚くない扉がノックされ、付き合って八年、同棲している恋人の翔太の声が響く。
しかし、名前を呼ばれた葵は布団を頭から被り、ベッドの中に深く潜り込む。翔太の顔を部屋から出て見ることも、声をかけることもしない。
しばらく翔太は葵の部屋の前にいたようだが、布団の中にいる葵の耳にガラガラとキャリーケースを引いていく音が聞こえてきた。そして数秒後、玄関のドアが開いて、閉まる。
「本当に行っちゃった……」
ドアが閉まってすぐ、葵は布団の中から体を起こして呟く。ショートボブの髪はボサボサ、目は赤く腫れあがり、床には丸まったティッシュがいくつも落ちてしまっている。しかし、それを気にすることもなく葵は部屋を出た。
一人いなくなってしまったマンションの一室は、音が消えてしまったように静まり返っている。翔太が暮らしていた昨日まで、この部屋には翔太が家事をする音や、歩く音、色んな音があった。それが今、幻だったかのように消えている。
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