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第7話 悪夢
「……いっつつつつ……」
もうもうと煙が立ち込める中、刑事は猛烈な身体の痛みに耐えつつ上半身を起こした。
途端、頭に尋常でない激痛が走る。
コブでもできたかと頭にそっと手を当てるとヌルっとした異様な感触が返ってきた。
慌てて手を見ると、その手は鮮血で真っ赤に染まっている。
「何だこりゃ……」
咄嗟に出た自分のつぶやきが、耳に返って来ない。
そこで初めて刑事は、自分が音の無い世界にいることに気付いた。
試しに軽く両耳を叩いてみる。
ボワンボワンと変な反響がするが、聞こえないというわけでは無いようだ。
間近で聞いた爆音のせいで、一時的に遠くなっているだけだ。
とりあえず鼓膜が破れたわけでは無さそうだという結論に至り、少しだけ安心した。
刑事は自分に何が起きたのか考えた。
部下たちに突入を命じ、一番後から自分も建物の中に入って……。
その瞬間、大爆発に巻き込まれたのだ。
刑事は立ち上がった。
頭のてっぺんから爪先まで、痛みの無いところなど無いとばかりに激痛が走る。
刑事はゆっくりと、身体の感覚を確かめた。
目はなんとか見えるが、耳はまだ復活まで時間が掛かりそうだ。
腕は打撲で済んだようだが、左足が決定的に駄目。全く動かない。
恐る恐る見ると、足先があり得ない方向に曲がっている。
これは骨折確定だ。
とその時、刑事は赤ん坊の泣き声に気付いた。
ボワンボワンと耳の中で音が変に響き、まだ聴覚が異常をきたしていると分かるが、確かに赤ん坊の泣き声が聞こえるようだ。
――助けなくては!
刑事は全身の激痛に堪え、動かぬ左足を引きずりつつ、音の聞こえる方に向かった。
それほど距離があったわけでは無い。
せいぜい二十メートルといったところだ。
だが、ゆっくりゆっくり歩き、音の発生源まで行く間に、刑事は部下たちの累々たる死体の山を目の当たりにすることとなった。
皆、ひと目で生きていないと分かる。
自分のミスだ。
自分の指揮が未熟だったから、部下を無下に死なせてしまった。
刑事は流れる涙を拭うことすらせず、赤ん坊の泣き声のするところまで必死に歩いた。
「誰か……この子を……」
「あ、あんた、大丈夫か! 良かった。俺の他にまだ生きてる人がいて……春香さん? あんた春香さんか?」
刑事は瓦礫の下敷きになっている若い女性が差し出す赤ん坊を受け取った。
「良かっ……た……」
女性の目は開いてはいたものの、何も見えてはいないようだった。
我が子を生き延びさせる。ただそれだけの意思で、無理矢理命を繋ぎ止めていたのだろう。
刑事に赤ん坊を渡すと同時に、女性は静かに息を引き取った。
そこで刑事は気付いた。
今しがた亡くなったばかりの女性の上に、老齢の女性が覆いかぶさっている。
こちらも、ひと目で既に事切れていることが分かった。
「多恵さん……。あなたも一緒だったのか……」
祖母が覆いかぶさって嫁を守り、嫁が覆いかぶさって子を守り。
そうして赤ん坊だけが、かろうじて生き残ったのだ。
刑事は泣き叫ぶ赤ん坊を抱えると、骨折した足を引きずりつつ、出口に向かってゆっくりと歩き始めた。
次の瞬間、刑事は後ろからいきなり背中を蹴飛ばされ、思いっきり顔から瓦礫の山に突っ込んだ。
目に火花が散る。
「ギャーーーーーーーー!!」
反射的に赤ん坊を抱えるように丸くなったので怪我は無かったようだが、赤ん坊は激しく泣き始めてしまった。
刑事は激痛に耐え、振り返った。
そこには、身体にピッタリフィットしたケーブルニットとスラックスを着た、上下を紺でコーディネートした糸目の男が立っていた。
肩より長く伸ばした髪が印象的だ。
左手に黒のボストンバッグを持っている。
街中に立っていたら目を引くであろうイケメンだが、冷笑が似合いそうな、一種冷酷なイメージを纏っている。
こうして瓦礫の散乱した爆破現場に立っていると、場違いなこと甚だしい。
「全員始末したと思ったんだが、一人、いや、二人生き残っていたか。面倒を掛けさせてくれる」
男は持っていたボストンバッグをその場に投げ捨てると、刑事に殴りかかって来た。
それは見たことの無い拳法だった。
流れるような打撃が、赤ん坊を守ってうずくまる刑事を絶え間なく襲う。
――駄目か……。
意識が消えそうになる直前、いきなり攻撃が止んだ。
顔に受けた打撃のせいで、目が腫れて視界がほとんど無くなってしまったようで、何が起こっているのか確認が取れない。
馬鹿になっていた耳だったが、この時なぜかはっきり襲撃者の舌打ちが聞こえた。
「どうやら増援のようだ。そろそろ離脱しなくては。あと一分あれば、我が八極光拳で二人もろともあの世に送れていたものを。まぁいい。拾った命を大事にするがいい」
それきり、謎の襲撃者の声がしなくなった。
逃げたのか。それともいよいよ本格的に自分の耳が駄目になったのかと思い始めたとき、大量の慌ただしい足音と、聞き覚えのある大きな声が聞こえた。
「誰かいないか! 誰か! う、こりゃ酷い……。一体何が……せ、先輩? そこにいるのは先輩ですか! 生きていたんですね?」
「その声は、光太……か? 頼む、この子を。颯坊を……」
消えゆく視界に、見知った大男が映る。
痛みで震える手から抜ける力を必死に堪えて、大男に赤ん坊を渡す。
「颯太? 颯太ですって? なぜ颯太がここに……。まさか! そんなまさか!」
赤ん坊を抱えた大男が可哀想なくらい取り乱す。
やがて目当てのものを見つけたのか、赤ん坊を抱えて走り回っていた大男が突如悲鳴を上げた。
「春香! 春香! あぁ、なんてことだ! 嘘だ! こんなの嘘だ! 嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
瓦礫と化した建物の中に大男の絶叫が響き渡った。
刑事は消えゆく意識の中、大男の半狂乱の泣き声を聞きながら、気を失った。
◇◆◇◆◇
「夢……か。嫌なことを思い出したもんだ……」
男はベッドから上半身を起こすと、ベッドサイドに置いてあった時計を見た。
朝三時。まだまだ街は眠っている時間だ。
眠気が去ってしまったことに気付いた男は、黒のガウンを羽織ると窓際に行き、掛かっていた白いレースのカーテンを開いた。
真っ暗な中、窓にくたびれた中年男の姿が写る。
「久々にあの人に会ったからだな……」
男はしばらくそこで、考えに耽りながら立ち尽くしていた。
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