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茜色の空をツクツクボウシが彩る中、不恰好な下駄の音が調和を乱す。
俺はおろしたての浴衣の袖に両手を突っ込みながら、時折立ち止まってはまた歩き出すことを繰り返していた。
携帯がなる。恋人の夏代からだ。
『夏休み最後の日にデートできず残念。埋め合わせよろしく!』
画面を消して信玄袋に片付けると深いため息が漏れた。
俺は何をやってるんだ。やっぱりこんな約束──。
「シュウ、こっち!」
馴染みある声を聞くと、俺の思考は意図も容易くストップした。
高校生にもなって子供みたいに大きく手を振るアイツ。
家が隣り合っていたので、小さな頃はよく遊んだものだ。中学からは流石に同性同士でつるんだけれど。
俺は久しぶりに見る陽だまりのような笑顔に目を細めた。
「お前なあ、ずっと音沙汰なかったのに、急に連絡してきて祭り行くぞって、無茶振りもいいとこだろ」
静かな田舎道に明るい笑い声が響く。
「いいじゃん。こうしてきてくれたんだし」
俺は言葉に詰まった。
そう、来てしまったのだ。恋人との約束をキャンセルして。
「そろそろ始まるから。行こう」
まるで子供の頃に戻ったように、コイツはごく自然に俺の手を取ってくる。心臓が情けないほど大きな音を立てた。
懐かしいだけだ。
ずっと一緒だったのに、高一の終わりに突然引っ越して行ったから。久しぶりの友達に会う……夏代に説明した言葉に嘘はない。
俺は自分の心にそう唱え続けた。
彼女によると、今夜は「夏果祭り」なるものがあるらしい。
初めて聞いた。最近まで祭りなどちっとも興味がなかったから、リサーチ不足が否めない。
俺はさも知っていたかのように「楽しみだな」なんて話しかけていた。
小川のせせらぎを耳にしながら、携帯のライトで足元を照らす。
既に舗装道路ではなく畦道に差し掛かっていた。
まだ薄明が残る時間とはいえ、細かい部分は見えにくい。砂利などでこけるわけにはいかない。背伸びして下駄を履いたのがバレてしまう。
足元に集中していると、周囲はすっかり木々に囲まれ、鬱蒼とした森に入ったことに気付いた。
「何処まで行くんだ?」
「いいから、いいから」
相変わらず人の質問に答えない奴だ。
俺はため息をつく代わりに繋いだ手をぎゅっと握り締めた。
彼女はこちらを振り返った後、にっこり笑って握り返してくる。どうにもコイツには敵わない。
水の音が大きくなった。
彼女は木の板を埋め込んだだけの階段を、草履でゆっくりと降りる。
俺は彼女の手を引いているように見せかけて、全神経を足元に集中させた。
無事に降り切ると、夏の濃い湿気が漂う。
彼女が大きく深呼吸をした。
祭りの屋台どころか、明かりひとつ見えない。
再び質問を投げようとした所で、彼女が手を掲げた。
その動きに合わせて、川原の草葉の影から一斉に蛍が舞い上がる。
水の上、木の枝、砂利の中。あらゆる場所に点々と光が散って、地上にまばゆい星空が出来上がる。
蛍の出る森だとは知っていたが、これほどの数は見たことも聞いたこともない。
「ほら、入り口」
ハッとして顔を上げると、確かに彼女の指し示す先に赤く灯る提灯が並んでいた。
いつの間にあんな明かりがついたのか。
疑問の答えが出る前に彼女に手を引かれ、俺はその入り口を潜った。
夏果祭りの会場は様々な屋台が並び、多くの人で賑わっていた。
入り口を潜ってすぐに、案内係から狐のお面を手渡される。
「ほら、つけて」
お面など子供の頃以来つけたことはないが、周囲を見渡せば確かに皆使用している。白い狐と、黒い狐。
そういうお祭りなのかもしれない。俺は言われた通りに黒狐のお面を被る。夏も、白狐のお面を被った。
金魚掬い、射的、くじ引き……お馴染みのゲームが並ぶ。
飲食も充実しているようだ。食べ歩きしている人も少なくない。
彼女は最初に金魚掬いを選んだ。
「いらっしゃい! ここで獲った金魚は——へ持っていけるよ」
店主も面を被っていた。そのせいでやや声が聞き取りづらい。
「よっし! どっちが沢山獲れるか、競争ね」
「泣きべそかくなよ」
遥か昔、両家族で一緒に楽しんだ時のように、俺達は無邪気にはしゃぎ合う。
結果は僅差で俺の勝ち。
リスのように頬を膨らますコイツが可愛い。この顔見たさに、よく揶揄ったものだ。
続いて射的の屋台にきた。
ここで俺は妙なことに気付く。
射的は普通景品に弾を当ててそれをそのままもらう。しかし、当てる前からどの景品も汚れたり壊れかけたりしている。
俺はお面の下で顔を顰めたが、彼女は気にならないらしい。意気揚々と銃を手にする。
一発、二発。テンポ良く的が倒れていく。これでは勝敗は目に見えているだろう。
そう言えば、彼女は昔から射的が得意だった気がする。的を狙う真剣な横顔に、幼い日の面影が重なり合う。
懐かしさに目を細めながら、金魚の入った二つのビニル袋を持つ手につい力がこもる。金魚達がびくりと尾鰭を翻した。
どうして彼女は、俺に何も告げず引っ越したのだろうか。
あれはちょうどホワイトデーの日だった。連休明けであったことを覚えている。
俺はこの日、一つの賭けに出ようとしていた。腐れ縁のアイツに、お返しのチョコを渡すつもりでいたのだ。
実はバレンタインデーの時に、靴箱へ匿名のチョコレートと手紙が入れられていた。筆跡からしてアイツに違いない。
そう思った俺は、ポケットに小さな箱を忍ばせて、意気揚々と学校へ行った。
そしてホームルームの時間に、担任の口から彼女の引っ越しを聞かされたのだ。帰宅後、隣家は既にもぬけの殻だった。
夏代に声をかけられたのは翌日のことだ。チョコの返事が欲しいと。恥ずかしさのあまり名前を書くことができなかったそうだ。
アイツの引っ越しとチョコレートの本当の差出人が判明し、二重のショックを受けた俺は二つ返事で夏代の告白を承諾した。
突然目の前に山のような景品を突きつけられ、俺は我に返った。
「どんなもんよ?」
得意げに鼻を鳴らす彼女に、俺は何でもなかったように「やっぱ射的は敵わないな」と笑って見せた。
最後に来たのは、会場の中でも最も大きな面積を占める店だ。
「ここは何の店?」
「展示コーナーだよ。夏果祭りを名乗るくらいだから、夏で終わるものを飾っているの。最後の見納めにね」
何となく相槌を打って、棚に並んでいるものに目を向ける。
蝉の鳴き声、一輪の向日葵、潮の香り……どれも透明なケースに入れられて、名札がついている。妙なものばかりだ。
一通り何があるか見てみようと足を進める内に、それは見つかった。
自ずと足が止まる。俺は石像のように固まってしまった。一つのクリアケースをじっと見つめたまま。
そこにはこう書いてあった。
『夏の命』
「何だよ、これ……」
やっと絞り出した声は随分間抜けな印象だった。
彼女は何も言わない。お面をつけているから、表情も読み取れない。
俺はゆっくりと振り返る。提灯の照明を真横から浴びて、顔に濃い影が落ちた。
「どう言うことだよ、夏」
「久しぶりだね、あたしの名前呼ぶの。中学入ったくらいから『おい』とか『お前』が多かったから」
「そんなことどうでもいいだろ!」
意図せず怒鳴り声が出た。周囲のざわめきが鳴りをひそめ、皆立ち止まって俺達を見ている。
「書いてある通りよ。さっき説明したでしょ? 夏で終わる物を展示してるって」
「ふざけ——」
かっと頭に血が昇り再び叫びかけた時、誰かと背中がぶつかった。
足元に白い狐のお面が転がる。
少し冷静さを取り戻した俺は、お面を拾い持ち主に返そうと顔を上げた。
「うわあ!」
結局叫んでしまった俺はお面を地面に落とした。俺自身も尻餅をついている。どうやら腰が抜けたようですぐには立ち上がれない。
ぶつかった相手は自分でお面を拾い上げ、後頭部をかきながら頭を下げる。
「すみません、ぶつかってしまって」
頭の動きに合わせて、眼球がぶらりと垂れ下がり宙に揺れた。
顔の右半分が無惨にひしゃげている。
俺の体は小刻みに震えていた。漏らさなかっただけでも御の字だ。
「大丈夫ですよ。多分大したことないので。これを取ろうとなさったんですよね?」
夏は展示コーナーから己のものとは異なるケースを取って渡した。『渡の命』と書いてある。
「ありがとうございます。早く行かなければならないと分かっていたんですが、どうしても最後に現世で思い出を作りたくて……。このお祭りに来れてよかったです。お供もできましたし」
渡は口元を吊り上げ、金魚の袋を持ち上げてみせた。
夏が大きく頷く。
「金魚達も、最後にもうひと泳ぎできて嬉しかったでしょう」
「ええ、きっと。では、また向こうで会えたら、その時はよろしく」
夏は手を振って渡を見送った。俺はまだ尻をついたままだった。
それから俺と夏は一言も喋らなかった。ただ手だけは緩く繋がれたままで、ゆっくりと会場の出口へ向かって歩いている。
段々と、提灯の灯りが少なくなってきた。
「さてと。ここまでだね」
夏がお面を外す。待ち合わせた時とは違い、随分と青白い顔をしていた。頬も、骨に皮が張り付いたように痩せこけている。お面の下でハッと息を呑んでから、再び平静を装い、俺も同じように外した。
「それ、失くしちゃ駄目だよ。帰れなくなるから」
「……何で、終わっちゃったんだよ」
俺は微風にすらかき消されそうな声で聞いた。本当は、今の彼女の姿から答えは出ているけれど。
「病気だよ。ある日突然見つかってね。すぐ手術を、って言われたの。それで大きい病院のある町へ引っ越しまでしたんだけど、死んじゃった」
「何でもない風に言うなよ! なんで何も言わずにいなくなったんだよ! 挙句、最後の最後にこんな……。人を振り回すのも大概にしろよ!」
俺は顔を真っ赤にしながら叫んでいた。目尻に涙が滲んでくるのを、歯を食いしばって耐える。まともに夏の顔も見れなかった。
出口の向こうには白い霧が立ち込めている。奥から鈴虫の鳴き声が漂ってきた。秋の気配が、夏の終わりが、もうすぐそこまで迫っている。
虫の音が数度同じ泣き声を繰り返した後、ようやく夏が口を開いた。
「覚えてる? バレンタインの日に、靴箱に匿名の手紙が入れてあったでしょ」
「は? あったけど……あれは別の」
「その手紙ね、私が出したの」
「へ」
思わず目が点になった。
頭の中が迷彩模様だ。整理しよう。
つまり、チョコレートと手紙の差出人は別々だった?
俺が脳内パニックを起こしている間も、夏は話を進める。
「『いつか貴方とデートしたいです』って。馬鹿でしょ? 名前も書かずに。でも書けなかったんだ。もう引っ越しは決まってたから。だからね、心の支えにしたかったの。いつか必ずって……。最後に叶ってよかった」
澄んだ青空のように、夏は笑った。
俺は無意識に自分の胸元を強く握りしめていた。
「何でそんなにあっさりしてるんだよ! 俺は、俺の気持ちは……」
真珠のように大粒の涙がこぼれ落ちた。
夏は柔らかに目を細めて、俺の頬を両手で包み込む。
ひどく冷たい。けれど、胸の中に温かいものが流れ込んでくる。
「シュウ、あたし達はいつでも一緒だよ。今までも、これからも、ずっと。だって、私達は夏と秋だから」
嗚咽が込み上げてきて、言葉が出てこない。ただ、荒い呼吸だけが繰り返される。
夏の顔が近づいてくる。
俺は黙って目を閉じる。
乾いた唇の感触。
再び瞼を開いた時には、夏はもう跡形もなく消えていた。
翌年の八月三十一日。
俺は再び森の川を訪れた。
今年は残暑が厳しく、まだまだ多くの蝉達が力強く鳴き続けている。
あれからこの川原に変わったことは起こらなかったし、そもそも夏果祭りなんて聞いたことないと、知り合いは皆かぶりを振った。
夏の病気について、俺の親は初めから知っていたらしい。
必死に頼み込んで引っ越し先を聞き、俺はすぐに新幹線へ飛び乗った。
新しい住まいでは彼女の両親が出迎えてくれて、夏のことを詳しく教えてもらった。
八月三十一日未明、彼女は眠るように息を引き取ったという。うっすらと笑みすら浮かべた顔だったそうだ。
焼香をと勧められたが断った。何となく、手を合わせるのならばこの祭り跡だと思ったからだ。
もう提灯の灯りも何も見えないけれど、どこかであの世界と繋がっているような気がする。
俺は二回手を合わせ、そっと目を閉じた。
再び目を開けると、一匹の蛍が俺の周りを漂う。
やがて空へ舞い上がったと思うと、まるで青に溶けるように姿を消した。
帰り道、森を抜けるとまだまだ強烈な日差しが肌に突き刺さってくる。それでも、風は少し涼しくなってきた。空も以前より高くなったように感じる。
俺はひとつ大きく伸びをすると、長く続く一本道をゆっくりと歩み始めた。
今は夏の終わり。
夏と秋が隣り合う季節だ。
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