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癒しの国
前にもこれと同じことがあった。
そう思いかけたが、理性は否定する。ありえない。
「どうしたの」
信号が青信号に変わったのに立ち尽くしていたからか、不安げに隣に立つ妻、朋美が、腕を絡ませながら言った。ベージュのシフォンブラウスが、紺の半袖シャツから覗く俺の腕に直にあたり、ほんの少しこそばゆい。日は傾きかけて、汗ばむ腕を不意に撫でた風は涼やかだった。遠くにツクツクボウシの啼く声がして、ああ、今は夏の終わりなんだな、と思う。
今は?
腕を引かれるままに慌てて歩き出し、なんでもないよ、と否定しながらも、頭のどこかで警報音が鳴り響いている。何かがおかしい。でも、何がおかしいんだ?
「祐希は今、どうしてる」
「えっ? 友達と遊園地に行ってる、って朝にも言ったじゃない。六時には帰ってくる。駅までわたし、車で迎えに行ってくるから」
もうこんな時間かぁ、と朋美が腕時計を見ながら呟く。
「行っちゃだめだ」
口をついて出た言葉に、何よりも自分が一番驚いた。朋美もはぁ? と答えながら目を丸くし、あきれたような表情を浮かべている。
「何よいきなり。……というか、何か理由でもあるの?」
理由? そう聞かれた瞬間、はっきりと脳裏に思い浮かぶ光景があった。
大破した黒いセダン。蝉の声。薄暗い救急待合。並べられた二つのストレッチャー。
ストレッチャーの上に並ぶ、目を閉じた妻と息子。朋美と祐希。
フラッシュバックのように眼前をいくつもの場面が通り抜けて、恐慌のあまり叫び出しそうになったところ、頭の中に声が響いた。
《申し訳ありません、嫌なことを思い出させてしまって。一度停止します》
頭がおかしくなったのか、と思ったのだが、おかしいのは頭だけではなかった。いつの間にか目の前は暗く閉ざされ、隣にいたはずの朋美の姿は、もう影も形も見えない。微かに金属的な匂いが香り、肌寒い、人工的な空間に閉じ込められたように感じる。
「何だこれは。ここはどこだ。今、何が起こってる?」
矢継ぎ早に質問しながら、徐々に記憶が蘇ってくる。
妻、朋美と、息子、祐希は既に死んでいる。祐希が、中学一年生の時だ。遊園地からの帰りを迎えにいった朋美の車は、祐希を乗せたままトラックに追突され、二人とも死んだ。悲しみに暮れながらも、俺はそれから一人で生きてきた。そうじゃなかったのか?
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