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第3章 君だけに
豊田さんとの練習は、まずは彼女の家でということになった。彼女の家に行くことで既にドキドキだったのだけど、それが彼女の両親の希望と言うことを聞いて、ますます緊張してしまった。
きっと自分の素晴らしい娘がどんな素晴らしい男と演奏会で共演するのだろうと、きっと楽しみに僕を招いたことなのだろうと思ったのだが、僕はそんな素晴らしい男じゃないし、そういう期待をされるとかなりプレッシャーを感じてしまう。
或いは、どうせろくでもない男が自分の素晴らしい娘にとりついて、素晴らしい演奏会に付け込んで言い寄ったのではないかと、それを心配して、それを見極めてやろうと呼んだのかもしれない。
いずれにしろ、僕には不利。逃げ出したい気分満点。でも、これは僕だけの問題ではなくて、学校の問題でもあることなので、そういう意味では建前が立つし、僕自身も逃げることはできないことだと諦めて、彼女の家に向かった。
その日はとても冷え込んだ。梅雨ということで、雨も激しく振ったせいもあるけど、例年になく気温が低下して、まるで夏も秋も飛び越えて、一気に冬が来てしまった錯覚に陥った。
彼女の家は高級住宅街の一角にあって、青銅製の門から、玄関まで少し距離がある、いわゆるお屋敷だった。門のところで、監視カメラに写されながら、僕は手に息を吹きかけながらドアフォンを押した。こんなに手がかじかんでいたら、弾けないギターが更に弾けなくなる。
少しして中から応答があり、大きな門が自動的に開いた。僕は中に進むと、庭の風景などには目もくれずに玄関まで走った。玄関にたどり着くと、そこには豊田さんが立っていた。
「こんな雨の日にごめんなさい。」
「いえ、別に構いませんよ。」
「楽器が濡れてしまうわ。」
「寒いですね。」
中に入って、渡されたタオルで服やギターケースについた水滴を拭き落とし、それから応接間に案内されるとそこには豊田さんの両親がいた。
いきなりのご対面に僕があわてていると、わざわざお越しいただいて申し訳なかった。この雨でたいへんだったでしょうと言われた。僕は雨は傘をささなければならないのでおっくうですが、それより寧ろ、今日の寒さの方が参ってしまいますと答えた。
「それで、小町さん・・門のところで何かされていたようだが・・。」
「え?」
「いや、たいしたことではないのだが、何かお困りのことでもあったのかなと。」
「はい。」
「先ほど、門のところで、何かご自分の手を見ていなかったかなと。」
ああ・・門のところで、寒くて・・。
「はい。手がかじかんで、寒くて、それで息を吹きかけていました。」
「外は冷えるかね。」
「はい。」
こういうお宅の人は、寒い、冷える・・そういう経験がないのだろうか。確かにこんなに大きな家なのに、この部屋だって天井がとても高く、冷暖房だってなかなか行き届かないのではないかと思われるのに、それなのに、一向に寒さなんかを感じることはなかった。
僕は手が冷えて、かじかんでは、ギターが弾けなくなる。そのことだけが気がかりだった。
そこに、お手伝いさんが、コーヒーを運んで来た。
「なんか楽しそうな会話が聞こえましたが。」
全然楽しくないんだけど。
「なんか小町さんに申し訳ないことをしてしまってね。こんな寒い日にお招きしてたところに加えて、冷えたコーヒーまでお出ししてしまって。」
「え・・そうなんですか?」
「いえ・・そんなことは決して・・・。」
「そうやって気を遣ってもらうと却って申し訳ない。」
なんか喜劇の登場人物になった気がした。
「小町さん、コーヒーが冷えてしまったのなら、取り替えて来ますが。」
「いえ、大丈夫です。」
結局、何故かコーヒーが冷えたことになってしまった。
「かりんとう用意しましたの。どうかしら?」
「かりんとうか。」
「お好きですか?」
「はい。」
「それは良かった。」
かりんとう・・
好きというわけではなかった。でも、かりんとうには思い出があった。
「かりんとうに、思い出があるんです。」
「へえ・・どんな?」
お父さんがかりんとうを珍しそうにながめながらそう言った。
「是非聞かせて下さい。」
豊田さんが僕の正面に静かに座った。
「聞きたいですか?」
「是非。」
ギターの腕前を聴かせるよりはと思い、僕はその話をすることにした。それは豊田さんにだけ語る内容だった。ついでにご両親もいらしたけど、豊田さん、君だけにきかせる話だった。
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