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「……子どもはいないんだよ。僕は五年前に妻を亡くしててね。それきり独り者なんだ」
咄嗟に反応することができない。何を言っても自己弁護にしかならないくらいわかっていた。一度口から吐いたものは、決して取り消せないのだから。
「佐原さん。僕は別に気にしてないんだ。もう完全に割り切れるくらい時間も経ったし。でもそういう、──プライベートなことは気軽に訊かない方がいいね。オヤジの戯言でうるさいと思ってくれても構わない。これから社会に出る上での嗜みとして、心の片隅にでも置いておいてくれると嬉しいよ」
静かに、淡々と綴られる台詞。
上坂は真に言葉通り気にしていないのかもしれない。
しかしそれは本質ではなかった。他人を深く傷つけるかもしれない言葉を、己が発してしまったという事実の前では。実際に、今の上坂の話は亜沙美の心の奥底に突き刺さった。
自業自得に過ぎないが、言葉は刃になり得るのだと身を持って体験してしまう。
「……す、すみませ──」
何と言えばいいのかわからなかった。今この瞬間もわからない。
ただ、黙って有耶無耶に誤魔化すことだけはしてはいけない、と強く思った。けれど謝罪が正しいのかもまた、亜沙美には判別できないのだ。
「ああ、ごめん。君を責める気はないんだ。ほんの少し気に止めてもらえたらいいな、ってこんなの年寄りの説教にしか聞こえないかもしれないけど。私に対しては、本当に気にしなくていいから」
ふと、『何か』が耳に引っ掛かった気がする。
理由を考えるまでもなかった。
彼の普段通りの私という一人称に、先ほどの僕が逆に動揺の証に感じられてどうにも堪らなくなる。
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