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「こういうの、困るんですけどぉ」
内容とは裏腹に、甘えた粘つくような口調。
「まあまあ。今はこれ以上何もしないからさ。今日は家来いよ」
宥めているのはよく知った声だ。美沙の恋人、だったはずの男。
午後から使う予定の小会議室の準備に来て、ドアのノブに手を掛けたところで中から聞こえる二人の会話に気づいた。
「あたし、派遣だしぃ。伊崎さんは社員さんじゃないですか。バレたらあたしが悪者ですよぉ」
「大丈夫だって! 別に結婚してるわけじゃないし、『美沙とはもう別れてる』って言えばあいつは絶対黙ってるから」
ちょっと見た目が良いだけでつまんない女だよ、と続ける宗田 蓮。
「ほんとに庇ってくれますぅ!? 伊崎さん、結構仕事できるし人望あるし。絶対あたしの方が立場弱いんだから守ってよ?」
「うんうん。それに綾ちゃんだって可愛がられてるじゃん」
ノブを握った手が小刻みに震える。
声どころか、身体中が石化したかのようにまったく動かせなかった。
「あー、伊崎さん。ごめん、遅れちゃって!」
そこへ廊下の先を曲がって姿を見せた先輩女性が、焦ったように駆け足になったのがわかる。
「佐々木さん。い、いえ、……私も、い、いま来たばかりで──」
どうにか喉から言葉を絞り出した美沙に、佐々木 直美は特に不審は抱かなかったらしい。
「今日はテーブルと椅子セッティングするだけだから。あとディスプレイは庄司さんが持って来てくれるって。今回は資料も全部担当者だしね」
話しながら、直美がなんの躊躇もなくドアを押し開ける。
声が出るのと同時に、手もノブから離せていた。
未だ震えの止まらない手を、美沙はそっと背中に回すように隠す。
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