その味は

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その味は

 ある夜、酔っ払って道に迷った。  帰宅途中のことだった。  僕はため息をついた。  僕は一応研究者なのだが、今日も上司に叱られた。その挙げ句の迷子か。まるで心象風景だ。  やみくもに歩いていたら、腹が減ってきた。  すると、食い物屋らしき灯りと暖簾が目に入った。  僕は店に入り、店内を見回した。  どうやら、もつ煮込み屋のようだ。 「おっちゃん、僕にももつ煮込み一人前。」  僕は言って、適当に座った。  やがて運ばれてきたもつ煮込みは、土鍋でぐつぐつ音を立てていた。 「お、旨そう。」  僕はさっそく頬ばり、はふはふ言いながら、もつ煮込みを食べた。  しっかり煮込まれていて、味はしみていたが、元の味、つまりもつ自体の味はさほど良くはなさそうだ。でなければ、ここまでこってりした味付けはしないだろう。  僕は店主に尋ねた。 「おっちゃん、このもつ、なんのもつ?」 「ああ……」  店主は僕の顔をチラリと見て、壁際の業務用冷蔵庫から銀色のトレイを取り出した。 「これだよ。」  覗いた瞬間、僕は目を疑った。  だが、間違いない。  見覚えがある。  僕は仮にも研究者なのだ。  僕は財布から万札を引っぱり出してカウンターに置き、口を押さえて店を飛び出した。  店を出たとたん、何かを蹴倒してしまった。  明かりの付いた置き式の看板だ。  そこにはからかうように、 『うらめし屋』  とあった。  倒れたまま喉をひきつらせて店をふり返ると、煌々とした明かりの中から、いくつもの見覚えのある顔が僕を無表情に見つめて、順番に消えた。  せめて、怒鳴ってくれたら。  せめて、恨んでいると言える状態でいてくれたら。  僕は………  僕は…………………  僕に何ができた?  店はもう、僕には見えなかった。  僕は迷子のまま、また歩き出した。  ーー帰りたい。  頭の中でそんな一言がぐるぐると回って、僕は胃からこみ上げるものを何度も押さえ続けた。
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