薄紅色のリップ

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薄紅色のリップ

 母の姉、おばさんがくれたリップだった。  おばさんはいつもおばあちゃんが座っている様な背もたれが大きい椅子の上に座っていた。と記憶している。  そんな私が中学一年生の時におばさんは世界から隠れてしまった。もうどこの誰もが見つけることは出来ない。  リップは薄紅の淡い色をしたリップだった。 「いいかい、これは勝負の時につけるんだ。文音(あやね)」  おばさんはそうやって私にリップを渡した。 「文音、あんた里音(さとね)からもらった。リップまだ使ってんの?」  母さんの突然の一言にトンテキを食べる手が止まった。就職活動を間近に控え、リップを使うことが多くなった。口の端に添えて分からないように。 「ま、まぁ」 「ふーん」  母は、まぁいいわ。とつなげた。 「なんで?」 「何が?」  自分で始めた会話のくせにすぐに忘れる母の暢気(のんき)さにイラっとした。 「なんでもいいから、聞いたのよ」 「なんでもいいのに聞く?」  こういう母にイライラする。  本人はかわしているつもりなのかもしれないが、いまいちかわしきれていない。そういう母をおばさんは(あい)らしいと言っていた。  私は全然そう思わないけど。 「使っているなら、長持ちするね。新しいの買ってあげるよ」  最初からそう言えばいいのに。 「いいよ。まだ残っているし」  あっそ。と、母は言い残し、自分のトンテキを片付け始めた。  こういう時、私はご飯を食べるのを止めてしまうけれど、母は昔からさっさと食べてしまう。要領がいいのか、不器用なのか。  リップは私にとって宝物だ。人見知りだった私はこの母の後ろに立って人と会った。  ところが母はそんな私を心配してか、私を前に出そうとした。それを拒んだが、母の押しに負けて無理やり前に出て、後で吐いてしまうことを繰り返していた。おばさんはそれを見かねたのか。 「困ったらうちにおいで、いつでも待っている」  そう言って、家の鍵を渡してくれた。  おばさんの家は欲しいものが何でもあった。まだ小学二年生だった私にとってパラダイスだった。  たくさんの絵本。  美味しいお菓子。  夏は涼しく秋には庭の紅葉が赤く染まり冬は雪を春は隣の家から落ちる桜を見た。   子どもの頃は四季の風景なんて全く関心は無かった。でもそれはきっととても美しい風景だっただろうなと今では思う。  おばさんはなぜか足が不自由で立つときはいびつで、座る時は足を引きずりながらはっていた。そのことを聞くと。 「もうずいぶん前に足をどこかに置いてきたの」と、笑った。  どこへ置いてきたかは教えてくれなかった。おばさんは分かったもので、ちゃんとこすれる部分にはあて布をしていた。  それでも破れた靴下は雑巾(ぞうきん)代わりにしていた。  両親はおばさんのところへ通う私に良心的ではなかった。母は定職に()かないおばさんを糾弾(きゅうだん)したし、父はそうやって勉強から逃げているから成績が伸びないと私を叱った。  だが、おばさんは小学校五年生になっても通う私に優しかった。  それがますます私を手籠(てご)めにしていると糾弾(きゅうだん)するのだが、ある時を境に両親は何も言わなくなった。ただ優しくなることもなかった。  おばさんはいつも背もたれが大きい椅子に座っていて、何かを()んでいた。それは何と聞くと。 「私にとって一番の宝物へのプレゼントだよ」  と、教えてくれた。  今では思う。あの部屋もあの空間も本当はその宝物へのプレゼントだったのだろう。  おばさんは私が小学校六年生になるころ、宝物を見せてあげると家の二階に上げてくれた。  それまで二階は「私の神域だからダメだ」と言ったが、その神域がよく分からなかったので、それを語るおばさんの変わり様が怖くて上には上がらなかった。  おばさんはここが私の寝室で、ここが押し入れで、ここが宝物の部屋だと私に教えながら先導した。  宝物を見せてくれるわくわく感より、まるで講義を受けているみたいに家についての教えを受けていた。こちらから問うことは無かった。  宝物の置いている部屋は服だらけだった。入ってもホコリっぽさは感じなかった。不思議と空気はきれいだったし、たくさんの服が散らかっているという様子もなかった。それをなぜか鮮明に覚えている。  おばさんはこの中から好きなものを持っていけと言った。  服だけではなく、ヒールの高い靴やもこもこのついた靴、奥に行くと化粧道具がポーチの中に入っていた。 「中、見ていいよ」  行動が見透(みす)かされていたことに驚いた。    この人は私の味方だと信じていたから怖くはなかった。中を見ると金色がはいった筒、これは口紅。微妙に色の違う四角の平べったいやつ、これはファンデーションだ。  そんな様々な筆が入った化粧ポーチより、その横に立ててあるピンク色の短い筒が気になった。 「これ」 「お目が高いね。昨日買ったばかり、あげる」 「でも昨日買ったって」 「いいのいいの。あなたには必要だから、選ばれたのだよ」  そう言って、おばさんは私の頭をなぜた。 「でも」 「いいかい。世の中は敵がたくさんいる。そいつらは善人(ぜんにん)の皮をかぶっているかもしれないし、群衆(ぐんしゅう)かもしれない。経験値を積むとどれが敵か分かってくる。その時に口の端に塗るの。そうしたら勇気が湧いてくる。あなたはいい子だよ」 「でも母さんは悪い子だって」 「流れに沿わないのが怖いだけさ。それ自体は悪くない。でもね大衆の大きさに震えちゃダメだ。震えた奴から襲ってくる。このリップはその為にお使い、じゃ今日はここまでにしよう。またおいで」  急かされ、私はおばさんの家を出た。  家の近くまで来て、おばさんの家を振り返った。  赤い屋根の大きなお家。いつもたくさん絵本と美味しいお菓子があって、四季の風景が見られた。  おばさんの家を出たら、咲いているのは桜ではなくて青々とした新緑(しんりょく)で、雪の姿はどこにも無くて少し暖かい。まるで時間がずれているみたい。    帰りに隣の家を見たら石垣が続いていた。桜なんかどこにも咲いていない。確かに今日お花見をして、お団子を食べたのに不思議だった。また遊びに行ったら()こう。どうやって魔法を使ったの?  遊びに行くことは二度となかった。  中学三年生もなって、焼け跡に寄ることが習慣になっていた。一年前には焼けた家はもう片されていて、売地として札が建てられていた。  人が死んだのだ。しばらくは買い手がつかないだろう。  高校生になっても焼け跡に寄ることが止められなかった。おばさんのことだから、私に何か残しているのではないか。そう思ってならない。  でも月日が経つにつれて、大学生になって、そんな事は無い事を分かってきた。  私に残されたのは薄紅の淡い色のリップだけ、大学も三年生になって春、就職活動が目の前に迫ってきた。  小さな地元の町から大きな街に就職活動に出かける。桜が咲いた暑い春。今日も満員電車に私の大事にしている気持ちが剥がされそうになる。  おばさんへの気持ち。今日リップを見たら随分とすり減っていた。もうじき無くなってしまう。  すり減ったリップをいつからか部屋の洋服棚の上に置くようになった。神様のお社みたいに(まつ)って、河川敷(かせんじき)に落ちていた小さな桜の木、それをリップの横へグラスに水と入れた。  部屋の一番高いところに置いておけば、おばさんも分かりやすいだろう。春、私の戦場は世界だ。私は今日も戦いに行く、善人風情(ぜんにんふぜい)の悪人や大衆へ。
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