あの海よりも深く

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思い出が頭の片隅にしか無くなっても、時には押し寄せてくるときがある。 秋に向かっている今がその季節だ。 自分が好きだという気持ちだけでは続けられ無い、それは私だけの感覚なのかも知れないけれど。 ずっと一緒に居たいと思う日々は、理性の底が抜けていたのかも知れない、だけどそれでも好きだった、今ならそう思って居る。 彼に初めて会ったのは大学生になった朝、初めて行った大学は全てが煌めいていて、彼もその中に居た。 全てが煌めいて居たから、そこの全てが素敵に見えて、好きだと思ったのかも知れない。 今から思えば、恋愛は幻なのかも知れない、追っても追っても捕まえられない。 それでもあの日までは、自分と彼の時間の共有を、それなりに愉しんでいた。 彼の手がハンドルを握って、口からはステアリングがどうとか、如何でも良い事が流れている。 『まあいいよ、だってサムスミスが歌っている。』そう考えながら、カーオーディオから流れる歌を聞いている。 車の助手席はいつもの定位置、彼と一緒は愉しいけど、車の中の時間は自分で居たくなる。 付き合い始めた頃は、同じ時間を共有しているのが楽しかったのに、何時しか彼の声が雑音に思えてくる。 「俺の言葉聞いてる?」生返事に彼が少しだけ大声を出す、ごめんね聞いてなかった、でも直接的には言えないな。 「解らない話が多かったから、ぼんやりしていたんだよ。」こっちもちょっと大きな声になっている。 「もうすぐ着くって言ったのに、聞いてないんだよな。」ごめん、だって興味ない言葉は耳を素通りするんだもん。 心の中で舌を出して置く。 それでもこの人に誘われると、車に乗ってしまうのは何故だろう? 自分の気持が分からない、抱き合うという行為が理性を頭から離していたのかも知れない。 私達は抱き合う時だけ、本当の意味で繋がっていて、それ以外は考えなかったのかも知れない。 今日も初任給でローンを設定して、自慢の車でドライブに行こうと誘われた。 彼は秋には海に行くのが良い、いつもそう言って夏の終わりには海に行こうと言う。 今回は車で行くというおまけが付いていて、彼はニヤニヤ笑いながら運転している。 「海に行ったら、塩で車が傷むらしいよ。」嫌がらせを言ってみると、難しい顔になる。 「帰ったら洗うから、何処に行ったとしても洗うつもりだったから。」そう答える。 「その言い方が嫌なんだよな。」ポツリと聞こえる。 「何が?」聞き直してみる。 「折角、連れてきてやってるのに、嫌な言い方しかしないよな。」怒っているな。 「本当のことだよ。」連れてきてくれなんて言ってないとは、思っても言わない。 「そんなんだと、嫌になっちゃうよ。」そうだと思った、きっと違う人とこれに乗りたいんだよね、車の中に漂うディオールの香水が教えてくれる。 「そうだよね、そう言うと思ってたよ、もう辞めようよ、気が無い付き合いはさ。」彼の望んだ言葉を口に出す。 「それでいいのかよ。」怒ったような安心したような響きが声に現れている。 「うん。」 その後は何も言わず、海を見て帰った、ディオールが私の位置を教えてくれる。 でも、サムスミスも声は何時までも慰めてくれていた、見てきた海よりも深く。
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