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「今日、図書委員だから行ってくるね。」 「そっか、がんばってねー。」 「森田と仲良くねー。」 笑って言われたその言葉と振られた手に、心の中で小さな音がする。もう何度もやってきた図書当番の日。なのに私はいつまでもこの瞬間に慣れない。別に良いのだけれど、別に仕方ないのだけれど、私が1人違う場所で過ごすことを皆はどう思っているのだろう。そんなことを考えながら、俯いて廊下を進んで行く。  図書室に入ると、森田は案の定先にカウンターに座って本を読んでいた。 「遅くなってごめん。」 「うん。」 いつもと全く同じ言葉を交わして、私は森田の隣に座る。この場所は、今日も静かだった。時計の音、小さな物音、窓から入る光、先週と何も変わっていない掲示物。  昼休みが半分くらい過ぎた頃、図書室の中には森田と私の2人だけになった。沈黙がなんとなく苦しい。真剣に本を読む森田の横顔をチラリと見て、私は椅子に座ったまま天井を仰いだ。由華達は今何をしているのだろう。考えると心が少し重くなる。賑やかな教室。絶えることのない話。私の日常は‘そっち’だ。 「森田ってさ、」 森田が顔を上げる。 「沈黙って、嫌じゃないの?」 そう尋ねると森田は無言でこっちを見た。そしてしばらく言葉を探すように視線を動かした後、ゆっくり口を開いた。 「…別に。人と話す方が疲れる。」 ゆっくり、だけどはっきりと言う。 「疲れるの?喋るのって楽しくない?」 私は沈黙が苦手だ。人といる時、何か喋っていないと落ち着かない。と言うか、皆もそうなんじゃないかと思ってる。森田みたいな人達は喋る相手がいないだけで、本当はわいわい楽しく過ごしたいと思っているんじゃないかって。なのに森田の眉間に皺が寄る。初めて面倒くさそうな顔をされた。 「楽しいお喋りって、悪口とか、噂話とか?」 森田の声は、冷たかった。 「…それは、」 予想していなかった言葉に、喉が詰まったように声が出なくなる。詰まったままで、息もしづらくなった。 「加納さんたちが楽しく過ごすためには必要なことなんだろうけど、」 ドクン、ドクン。心臓の音が速くなる。 「僕は、いらない。」         *** 「おかえりー、今日は忙しかった?」 「ううん、途中から誰も来なくて。」 そう答えると皆が笑い出す。 「えー、じゃあ森田と2人きり?しんど。」 「図書委員必要?陰キャが数人来るだけなんでしょ?」 どうしよう、うまく笑えない。 「陽菜、かわいそー。」 今まで、どうやって笑っていたのか思い出せない。 ―――加納さんたちが楽しく過ごすためには必要なことなんだろうけど、 楽しかったはずなのに。 ―――僕は、いらない。 森田が言ったことなんて無視すればいいのに。 「どうしたの、陽菜?」 笑えないのは、どうしてなんだろう。         ***  あれから1ヶ月。3回あった図書委員の当番中、私は森田と一言も話さなかった。もちろん森田から何か言ってくることはない。本を読み、時々仕事をする。いつだってこの静かな世界に違和感なく溶け込む住人だ。それに引き換え、たぶん私は浮いている。こっちの世界にも、あっちの世界にも馴染めない。あっちの世界にいることが何よりも重要なことだと思っていた。なのに私は、こっちの世界に足を踏み入れた時何故かいつも安心してしまう。静かで、誰も傷付けない、不思議な世界。森田が生きるこっちの世界を見つけてしまった。 1人が怖い。 1人ぼっちだと思われることが怖い。 常に誰かと喋って、笑って、騒いでいることがかっこいいことなんだと思っていた。 小さな違和感が積み重なっていくのを、見えないふりをし続けた。 「最近陽菜、ノリ悪いよね。」 「私も思った。」 「いい子ぶってんじゃん。」 「図書委員で真面目になっちゃった?」 「えー、めんどくさ。」 分かってる。浮いたままの私を、皆が良く思わないことくらい、ちゃんと分かってた。…違うか。こうなる前から別に好かれていなかっただけかもしれない。由華達の話に違和感を感じながら笑っていた私に、由華達も違和感を感じていたのだと思う。気付かないふり、見ないふりをしていた。怖かったから。1人で過ごすことが何よりも怖かったから。でももう、森田にこじ開けられて発見してしまったこの感情を無かったことには出来ない。 「ねぇ、」 教室に入って、由華達の前に立った。 「あ、陽菜おかえりー。」 さっきまでの悪口なんて無かったことのように皆は笑う。 「私、悪口とかもう言いたくないし聞きたくないんだ。」 空気が、キンと張り詰めた。 こっちの世界には、もう戻れない。         ***  誰もいない図書室。1番乗りするのは初めてだった。いつも森田が座っているカウンター席に座る。その隣の私が座っている席と景色はさほど変わらない。図書室だって、教室だって、私と森田がいる場所は同じ。同い年で、同じ授業を受けて、同じ景色を見ているはずなのに、森田と私のいる世界は全然違った。 カタン 小さな物音の先には森田がいた。 「…遅くなってごめん。」 「遅くないよ。」 自分が本当に遅れたと思ったのか、森田は時計を見てからいつも私が座っている椅子に座った。  しんと静か。今日は誰もやって来ない。でも別に何とも思わなかった。森田と2人きりの沈黙にももう慣れた。窓の外や掲示物を眺めるだけのこの時間が、週にたった1度だけれど私の生活の一部になっていた。 「…僕のせいだ、って怒るかと思った。」 隣で森田がポツリと言う。 「あぁ、教室でのこと?」 そう言うと森田は頷く。 「森田のせいって言うより、‘森田のおかげ’かな。」 あれから私は教室の中で浮いている。由華には完全に無視されているし、周りの子も私の扱いに困っている。でも時々由華がいない時にようちゃんが話しかけてくれるし、他のクラスメイトとはそれなりに普通に喋れている。いじめられてるわけでもない。あの世界にどっぷり浸かっていなくても、1人でも、意外と生きていけていた。 「ねぇ、森田。」 こっちを向いた森田と目が合う。 「最近、何か嬉しいことあった?」 目を丸くした森田が小さく首を傾げた。 「‘楽しい話’、したいなと思って。…森田が嫌じゃなかったら、だけど。…疲れない程度に。」 そう言うと、森田の口元が少しだけ柔らかく動いた気がした。 「…うちの猫に新しいおもちゃを買ったんだけど、」 ボソボソと森田は話し始める。一言も聞き逃さないように、私は椅子に座ったまま森田の方へ上半身を寄せた。 「へぇ、猫飼ってるんだ。うん、それで?」 「気に入り過ぎて、めちゃくちゃ遊んでくれる。」 そう言い終えて、森田は俯いてほんの少し頬を赤くする。 「良いじゃん、楽しそう。他にもまだある?」 上半身だけじゃなく、私は森田の方へ椅子を近付けた。 「…英語のテストの点数が良かった。」 「こないだの?何点だったの?」 「…95点。」 「すご!森田って頭良いんだね。他にはある?」 「…昨日の夕飯がカレーだった。」 「カレーおいしいよねぇ。うちは豚肉派だけど森田んちは?」 「…昨日はシーフードだった。普段は豚肉が多いかな。」 「そうなんだ。なんかカレー食べたくなってきた。私もお母さんにシーフードカレー作ってもらおうかな。」 ふ、と森田が笑う。そっか、森田も笑うんだ。当たり前なのだけれど、そう思ったら心の中がほんのり温かくなった気がした。 「あと、少し前のことだけど」 森田が口を開く。 「加納さんに、名前褒めてもらったこと、嬉しかった。」 頬がまた少し赤く染まっていたけれど、森田は俯かず私の方を見ていた。 「…そっか。そうなんだ。私ね、」 何故か鼻の奥がツンとした。 「森田と一緒に図書委員になれて良かった。」 そう言って笑うと、一瞬驚いた顔をした森田が顔をくしゃっとして笑った。 「森田、私と喋るのしんどい?」 そう尋ねると森田はゆっくり首を横に振る。 「今の加納さんと喋るのは、別にしんどくない。」 あぁ、嬉しいな。 素直にそう思った。誰かと話してこんな気持ちになったのはいつ以来だろう。そう思っていると、図書室に人が入ってきた。森田も私も自然と黙る。森田はまた本を読み始める。私は窓の外を眺める。長い長い沈黙。でもその沈黙が、少しも苦しいと思わなかった。
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