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「あなたとどんなに離れても、あなたをあいしてる」
智子は目から涙を流して眠ってしまったから、僕が智子の為に用意した笑顔を見ることは出来なかったと思う。
死んだとは思えなかった。なのに生きている気もしなかった。それほどに死に向き合えなかった。葬式を終えても、一人になっても、僕は智子の最後の言葉を頭で繰り返した。
泣きたいのに泣けない。泣いても逃れられない。だから泣かない。いや泣けない。そういう問答をしていてもきっとどうにもならない。けれど、この言い訳がましい心はそんな思考を止めてくれない。
煙草を吸って落ち着こうにも、いつか智子が部屋に戻って来てもいいように煙草は買わなかった。酒を飲むといっても、智子がいつ部屋に戻って来てもいいようにシャンパンしか無かった。
寝ようと思っても、この心は眠らせてくれない。大量に残ったケーキはカビていて、ハーゲンダッツも食べられないほど冷凍庫にあった。乾燥したチキンもそのまま。
彼女の遺骨は彼女の親が持って行ってしまった。付き合っていて、いくら結婚を前提だったとしても、まだ家族になれていなかった。結婚という契約を交わしていない。
退院したら、君のお嫁さんになるの。
君は本当に退院できると思っていたの。そう疑問も覚えたところだ。
智子の親は良心的で、いつでもいらっしゃいと言ってくれた。契約を交わしていないから、一緒の墓には入ることは出来ないけど、せめて顔を見せてやってね。智子の両親はそういうことを言いたかったのだろうと思う。
お約束である様な、死んだ後に見てノートや日記は残されていなかった。せめて「あ」でもいいから、残して欲しかった。彼女は「あいしてる」と言ってくれた。それでは十分ではないと欲深な僕は許してくれなかった。
だから、今。まだ記憶があるうちに文章で残しておきたい。
彼女が亡くなる半年前からツイッターの捨て垢で色々つぶやいている。その時から僕たちに残されていた時間は少ないと察知していた。誰か分からなくしているし、日記代わりに残しておきたかった。
七月十五日、智子は海に行きたいという希望があったので、車を走らせた。カモメがいるね。あれは鳶かな。砂浜は暑そう、こんな日に外出るなんてどうかしているよ。
そんなことを話しながら駐車場に車を停めた。予め智子は水着を下に着ていた。ちゃんと着替えも持っていたので、帰りに困ることは無かった。どうかしているねと言ったのに智子は病気になる前より元気そうに見えた。砂浜が熱いよ、海ってこんな生ぬるかったけ? うわ、カモメだよ。
夏なのに頭にニット帽を被っているのは異質でじろじろ見られるかもしれないと恐れていたが、何のことは無い。子どもたちは水泳帽を被っているので、それが杞憂であることがよく分かった。
「ねぇ、あーくん。泳ぎたいから来てよ」
病前より細くなった腕で遠泳など出来るとは思えない。僕がビート板になるか。
智子の元へ向かうと智子は両手を広げた。
「お姫様抱っこを所望です」
智子を抱き上げ、少し深いところまで足を進めた。
「ひやー、気持ちいいね。生ぬるいけど」
「僕ももう少し冷たいのかと思ったよ」
「これなら温水プールの方がまだ許せるよ」
「どうかな。海にしかない魅力があると思うけどね」
「暑い砂浜とたくさんの人?」
何も言わず微笑みを混ぜた表情で智子を見た。
「もぅ、アホやないの?」
バタバタと暴れる智子の額にキスをした。
「そういうのはお家に帰ってからだと思います」
スンっとした智子に官能的な情が浮かんだが、相手は病人である。
「今日の私は寛大なので、普段出来ないこと出来るけど、どうする?」
十月八日、智子の誕生日に両親の元に帰った。三十五歳の誕生日だった。僕は呼ばれて智子の実家に行った。
「最後の誕生日になっちゃったね」
「馬鹿だな。そんなわけないだろ。来年も祝うよ、再来年もずっとずっと祝うんだ」
僕の声は上ずっていなかっただろうか。ちゃんと発音出来ていただろうか、席を外した両親はきっとこの居間から聞こえないところで泣いている。
「今、死なないのにあの両親共はアホだな。あーくんはあんなアホにならないでね」
「祝うよ。来年も。病気なんて吹き飛ばしてしまえよ」
「お? お主。元先輩にそんな偉そうな言葉を吐いていいのかえ?」
「先輩様がお元気でいてくださるならばいくらでも吐きましょうぞ」
「言ったな? ではまずこの手巻き寿司セットの中からうにを食べたまえ」
僕はうにが苦手だった。
「お? お主さっきあんなに啖呵切っておいて、うに如きも食えぬとはなんという失態。いやぁ、情けない情けない」
おちょくられていることは分かったが、このまま引き下がれぬ。食べた。そして飲み込んだ。
「頭。ほらこっちに寄せて、流石男の子だな。好き嫌いは損であるぞ。未来の奥さんが苦労しないようにするのが我の務めじゃ」
未来の奥さんは君だよ。君しかいないよ。
「そんな悲しそうな顔をするな。あーくんに言っておくが、私が許せぬのは私の病気だけみて、私を可哀相に思う事だ。私は私を生きるのだ。そこに悔いは無い。だから憐れに思うなよ後輩君」
「さっきから僕の呼び方変わり過ぎ」
「ふふ、いいじゃん。君の事、いっぱい呼んであげるよ」
そう言うと智子は急に咳き込んだ。激しい咳をし、口を押えた手から血が見えた。
両親を呼びに行こうとする僕を智子は止めた。
「せっかくの誕生日だ。ケーキを食べさせておくれ」
「一口だけだぞ。クリームと苺どちらがいい?」
「クリームを苺に少しのせておくれ」
「任せろ」
食べさせて、飲み込むと智子は椅子から崩れ落ちた。
「おい、智子。智子!」
随分、悩んだ。本当にあの時ケーキを食べさせて良かったのか。うにを食べることで本当に喜ばせることが出来たのか。
そう、うじうじ考えると智子に怒られてしまいそうだった。現に面会出来ない智子は僕に「どうせうじうじ考えているだろうけど、無駄なことは辞めたまえ」と智子の両親が僕に伝えてくれた。
そうかアホだなって、智子、君は思うんだね。
そしてクリスマスの事。
最後の帰宅日だった。彼女はなぜか家族より僕を選んだ。僕はせめて半日だけでも家族の元へ帰ろうよと説得したが、彼女は譲らなかった。
智子の両親と説得を試みようとしても、両親は智子が言うならと引いてしまった。
「何が食べたい?」
すっかり細くなってしまった彼女の身体をソファーの後ろから抱きしめながら、訊いた。
「何が食べたい?」
智子もそう尋ねた。
「智子は何が食べたい?」
「最後だからハーゲンダッツ食べられるだけ食べたい」
「最後って、まだ」
「あーくん。いつも最後だって思って過ごすと特別な毎日になるよ。だからそういう顔をしないで」
「うん分かった」
「全然分かったって顔していないじゃん。こっちおいで」
智子はソファーの隣を手で叩いた。僕が座ると今度はひざまくらをするぞっと誘った。
「あーくんは心配だな。だって私がいないとすぐ暗い事しか考えないでしょ?」
「そうだよ」
智子はくすっと笑った。
「何々? 今日は甘えたさん?」
僕は智子の腹に顔を押しつけた。
「温かい」
「だって生きてるもん」
死んだらここも冷たくなる。
「そんな顔しないで」
きっと智子は泣いている。そんな気がした。
「あーくんは何でも分かるんだね」
やはり彼女の声は震えていた。
「私ね。怖いんだ」
「だってこれから近い未来、私死んじゃうんだよ。あーくんといられない未来が来るんだよ。ごめんね。クリスマスにこんな事いうつもりじゃなかったんだけど」
「うん、聞かせて」
智子はガクッとうなだれた。
「チキンが食べたい。大きいやつ」
え。きっと僕の頭の上にはてながついていたに違いない。あんなにうるうるモードだったじゃん。
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