記憶をたずねて

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若い女性は近くにいた職員に声をかけて、ルカをフェンスから出してもらった。体が大きくなってしまったので容易に抱き上げることはできないが、二人は触れたり一緒に歩いてみたり、短い時間の中でルカがどんな犬なのかを知ろうと懸命だった。 ルカはすっかり愛されることが怖くなっていたため、二人へ好印象を与えないようにわざとつまらない犬を装った。ボールを投げても取りに行かず、お手やおすわりを覚えていたが求められてもやらなかった。最初から愛されなければ自分が傷つかなくて済む。それにもっと他に良い犬がいるのだから、そっちを可愛がった方がよほど楽しいのにと思った。 だが、二人はルカ以外に目移りはせず、最終的に職員とトライアルの話を進めた。 職員が悩ましい顔でルカの問題について説明する。しかし、二人は平然としていてルカを引き取る意思は揺るがなかった。 「私はこの通り足が悪いけど、自分のことは長年きちんとやってきたわ。娘もたまに遠くから来てくれて助かっているしね。何の不自由もない。でも独りで暮らす生活の中でこの子が傍にいてくれたら良いなって、一目で思ったの。大丈夫、絶対独りにはしないから」 独りで暮らす足が悪い高齢の女性と、その生活を支援する遠方に住む娘。ルカを引き取る条件としては簡単に頷けなかった。 本当にルカを独りにする時間はないのか。もし、ルカがパニックを起こしてしまったら、高齢の女性だけで対処することができるのか。 職員達は二人とこれからについてじっくりと話し合いを行った。 「トライアル期間中に、もしルカがパニックを起こしてしまったらすぐ施設へ連絡をしてください。絶対に無理はしないこと。駄目だと思ったらそこでトライアルは終了です」 これがきっと最後のチャンスになるのかもしれない。これが駄目だったらルカは施設で暮らし続けるだろう。職員達は一縷の望みをかけた。 「ルカ、今度こそ幸せになれるはずだ。だから、頑張るんだよ」 施設を出たのは何回目だろう、職員は送り出す度同じ言葉をルカにかけた。しかし今回はかつてない緊張感が頭を撫でる手から伝わってきた。ルカは本能的に、今回が失敗したらおしまいなのだと察した。 ルカを迎えに来た二人はまるで最愛の家族と再会したように喜んでいた。 高齢の女性、日和は車の後部座席でルカのL字になっている左の前足の隙間に小指を軽く入れて、指切りげんまんのような形を作った。 「さ、ルカ。これから楽しく暮らすための約束。我慢しないでぱぁーっと暴れてもいいの。たくさん遊んでたくさん食べなさい。あんたをひとりぼっちにはしないから」 「名前はルカのままにしておくの?」 運転席に座る娘が尋ねた。 「良い名前だから変えずにこのままにしよう。でもあんたお父さんに似てるから間違えて呼んだらごめんね」 呆けるルカをよそに、二人は楽しそうに笑う。 今までこんな心強い言葉をかけられたことはなかった。大嫌いな前足を約束を交わすために使われるとは予想もしなかった。 凍りついた心が溶かされていくようで、もしも自分が人間だったのならば、嬉し涙を流していたに違いないとルカは思った。
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