記憶をたずねて

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「日和さんハ、約束通りワタクシを決して独りにはしませんでしタ。溺れ死にかけた恐怖を思い出しテ、パニックを起こしそうになったことはありましたガ、彼女の力強い励ましのおかげで我を忘れずに済んだのでス。穏やかデ、それは幸福に満たされた日々でしタ。生まれてきた意味はあったのだと彼女は教えてくれたのでス」 少女二人が帰った後、日が落ちて急激な寒さが訪れた。暖炉の傍で二人は暖まる。ルカは先ほど蘇ったばかりの記憶を雨無に話した。 「ワタクシのために店じまいをさせて申し訳なイ」 「いいえ、誰かが来たら開ければ良いだけです。名無しさん・・・・・・いや、ルカさんはその日和さんに出会ってから運命が変わったんですね」 雨無はロッキングチェアに座り、足を使ってゆらゆらと揺れた。 「そうでス。トライアルも上手くいキ、十八年近く共に生きましタ。年老いた彼女はワタクシを間違えて死んだ夫の名で呼ぶことが多くなリ、ワタクシもまタ、いつしか自分が犬ではなく人間だと錯覚するようになっていましタ。夫婦のように暮らす日々はとても幸せデ、ずっと続くものだと信じていたのでス。しかシ、裏切りにあいましタ。日和さんは約束を破ったのでス」 それも不可抗力で残酷な裏切りだった。日和本人もこうなる未来は全く想像していなかっただろう。 十八年の月日が流れたある日、日和は腹部に違和感を覚え、以前よりはるかに食欲が減っていった。これまで通り自分のことは何でもできていたが、みるみる体重が減ってしまい、心配をした娘が病院へ連れて行くことにした。 日和は病院に行く直前まで家から離れることを嫌がった。 「やだねぇ、万が一入院になったら和夫さんはどうなるんだい」 和夫は亡くした夫の名前だ。弱っている日和はますますルカを夫と間違えた。 「お母さんたら、和夫じゃなくてルカでしょ!」 「ああ、いけない。そうだった」 娘に説得されて渋々病院へ行かなくてはならない日和は、自分のことよりとにかくルカを気にした。絶対に独りにしないため受診の間、ルカは隣の家の老夫婦へ預けられることになった。 「ルカもおじいちゃんだから、昔みたいに体が動けなくなっちゃったもんね。連れて行きたいけど、少しの間だけ我慢しててね」 預けられる老夫婦の家の門で、ルカは日和を見送る。昔は色んな場所へついて行った。しかし老犬になった今では長い時間外で待つのは体力をかなり消耗する。どこに行くのも日和と一緒にだったが、時の流れはそれを許してくれなくなった。 仕方がないことだと自分に言い聞かせ、日和が早く帰ってくることを願った。 「ね、ルカ、ルカ」 車に乗り込む前、日和は痩せた手でルカの頬を撫でた。あんまり力が弱く、まるで葉っぱが頬を掠めたようだった。 「私はあんたより長生きするよ。だからあんたを独りにはしない。悪いとこ見つけて治すから、そしたらすぐ帰ってくるから、良い子にして待ってるんだよ」 以前のような元気な日和に戻ったら、また一緒に暮らせるようになる。そう信じてルカは喜んでしっぽを振った。 日和の乗った車が遠ざかるのを大人しく見送る。帰った時、きっと健康的でふっくらした体になって、笑顔で自分を抱き締めてくれるだろう。明るい未来を想像したこの瞬間は、確かに喜びの別れだった。 その夜、日和は帰って来なかった。次の日も、またその次の日も、ルカを迎えに来なかった。 状況が全くわからないまま、ルカは老夫婦の元で何日も過ごした。老夫婦は庭の物置小屋を犬小屋として代用し、餌と散歩以外ルカに構わなかった。独り、暗い夜を過ごすのは恐ろしかったが、パニックを起こしてそれが日和に知られてしまったら余計な負担をかけてしまう。自分を心配して体を治さないうちに帰ってきてしまうと思って、パニックになりそうな時は落ちている木の破片を強く噛み締めてどうにか耐えた。 そうした日が続いたある夜。リードに繋がれていたルカは長年使用していた首輪が劣化して外れたことで小屋から外へ出られた。自由になったルカは灯りのついた窓へと歩いて老夫婦にこのことを伝えようとする。 年老いて足腰が弱くなっていたが、幸いにも聴覚はまだ衰えていない。窓に近づくと、中で老夫婦が会話をしている声がした。 「娘さんから電話がきた。もう葬儀場に向かったらしいよ」 「日和さん、可哀想にねぇ」 日和の名前が出て更に耳をピンと立ててすました。次に、絶望の言葉を聞くことになるとは知らずに。 「まだこれからなのに、死んでしまうなんて」 日和、死。老夫婦の短い会話は、ルカの頭を真っ白にするのに充分だった。 ルカは走って門を飛び出した。歩くのがやっとな三本の足は、日和に会いたい想いだけが動かした。 隣の我が家は灯りがなく、人気がない。日和も娘もここにはいない。ならば病院。散歩で何回も前を通ったことがあるので道なりは知っていた。 走って走ってへとへとになりながら辿り着いた病院の敷地内を彷徨く。どこかに日和の匂いは落ちていないか、必死に探し回る。 しばらくすると、鼻先に水滴が当たった。雨が降ってきたのだ。ルカは体が濡れるのを恐れ、雨から逃げるように再び宛もなく走る。次第に強さが増していくと同時に、ルカの恐怖心も増していった。 地面にできる水溜まりが、坂道を流れていく水が、昔自分の命を奪おうとしたあの川に見えた。死と孤独に襲われて、ルカは闇の広がった夜空を仰いで悲鳴のように何度も鳴いた。 「ルカ、また怖い夢を見たのかい。よしよし、今夜は一緒に寝ようね」 日和はどこにもいない。あの温もりは二度と戻らない。人の寿命は長いはずではなかったのか。それなら自分が先に寿命を迎えたかった。 ____ワタクシはまた独りになってしまった。 スイッチが切れたように疲労した体はそのまま地面に倒れ、ルカは気を失っていった。このまま死んで日和に会えるなら本望だった。でももし、目が覚めてしまうようなことがあるなら、自分の名前も存在も、大切な人も、記憶の全てを忘れて楽になりたい。 そう祈りながらルカは深い眠りに落ちた。
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