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祈りが通じて、ルカは全てを忘れこの店へ辿り着いた。
自分を見失った時間があったおかげか、思い出してからも取り乱さず日和がいない現実を静かに受け入れることができていた。
ルカはカーペットの上に伏せ、夢うつつで暖炉のゆらめく火を眺める。
「ねぇ雨無さン。ワタクシは思うのでス。日和さんは旅立つ時二、残された者から自分と過ごした思い出の全てを奪ってくれたら良かったのにト。そしたらこんなに辛い思いをすることはなかっタ。日和さんに限ったことではありませン、死んでしまった瞬間かラ、皆がその人のことを忘れたらきっとこの世界から悲しみが消えるに違いありませン」
その人が生きた痕跡の全てが肉体と共に消失してしまえば良いというルカの考え方に、雨無は頷いた。
「確かに、その考え方はありだと思いますよ。亡き人を想って悲しみにくれて、心を病んでいる人はたくさんいますからね。でも、ルカさんと出会ってからこうして暖炉の前でゆったり語り合っている思い出を、いつか忘れてしまうとなると寂しいです。何だか、せっかく育った花がむしり取られたみたいで」
自分との味気ないひと時を花に例えられ、ルカは胸が熱くなった。
「当たり前なことに、僕は死んだことがないので死んだ後の気持ちはわかりません。だけど、やっぱり忘れないでほしいかなぁ。都合良く楽しい記憶だけを相手に残せたら、それ以上のことはないです。そんな仕組みがあるならあの陶箱も用無しでしょう」
「・・・・・・あなたはあの箱に別れの記憶を預けたのですカ?」
「預けようとしましたが、やめました。例え、どんな花でも覚えていようと決めたんです」
ルカは目を閉じて考える。一度なくした記憶を再び思い出せたのは、神とやらの思し召しなのかもしれないと。何もわからないまま最期を迎えて別の世界で日和に再会してしまえば、共に過ごした懐かしい思い出を語り合うことができない。
何より、日和は気が強い女性だが寂しがり屋なところもあった。亡くした夫の名前を寝言で呟いていたことが何度もあって、夜中に目が覚めてはルカを抱き締めた。
雨無と同じく、自分を忘れないでほしいと思っているかもしれない。
「別れの記憶を預けますか?」
「・・・・・・いいエ、次に会えた時のために取っておきまス。切ないけド、この気持ちに苦しめられるのもあと少しの我慢ですかラ」
冬を超え、春を迎えられるかどうかも怪しいことは年老いたルカ自身がよくわかっていた。
「図々しいのは承知ですガ、ワタクシはここが終の住処になることを望んでいるのでス。出会いも別れもあなたで最後にしたイ。もウ、疲れましタ。充分でス」
出会いと別れを繰り返すのはもうたくさんだった。
子犬だった頃、父子に助けられ保護団体で過ごし、色んな家族に引き取られた。巡り巡って日和に出会い、幸せに生きた。住み慣れた家で大切な人に看取られることが理想だったが、それが叶うことはない。
ルカを強い眠気が襲い、ウトウトと瞼を閉じたり開いたりしていた時だった。頭に手のひらが乗せられ、しっぽへ向かって優しく体を撫でられる。
雨無はいつの間にかロッキングチェアからおりて、ルカの隣へ座っていた。手から伝わる温もりは、もう独りになることはないから大丈夫と言っているようで、ルカは心地良さに目を閉じた。
「ありがとウ、雨無さン。申し訳ないのですガ、しばらくこのままデ・・・・・・」
雨無はルカが眠りにつくまで体を撫で続けた。
眠ったルカは夢を見た。これまで通り過ぎていった人達が出てきて、ルカに溢れんばかりの愛情を与えてくれた。その中には最愛の日和がいて、喜んで胸の中に飛び込んでくるルカを笑顔で抱き締めてくれた。
そして、また日和との生活の続きが始まる。そんな幸せに満ちた夢だった。
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