7.二十才 大学三年生 春 

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 ここで泣いたりしたら格好が悪いなと頭によぎった。  暗がりに浮かび上がる隼の唇。  その輪郭。  吐く息が白く立ち上る。冬でもないのに。  扉から薄く差し込む光に踊る微細なほこり。  隼はどこにいても光を集めるような存在だった。つかまえたくても決して僕のものにはならない。  願望が、僕の痛むこめかみからこぼれ落ちる。  何を望むのか、と尋ねた隼の声が頭蓋骨を締め付ける。 「隼のキスを」  粘膜は熟れた果実を思わせる。  僕はかがりと深いキスが出来ない。  生理的な違和感。  唇をそっと触れ合わせるだけの、それだけの口付けは安らぎをくれる。  かがりが僕に求める距離感と僕がかがりに求める距離感には、わずかな齟齬がある。  僕は隼に拒絶されるのが怖かった。  隼と自分との間にどんな距離感を望んでいるのか、自分でも分からなかった。  がしゃん、と倉庫の鉄扉がきしみを上げた。  唇だけでなく、歯もぶつかった。  こみあげてくる血の味と汗の匂いに侵略されていく粘膜。  背中が扉にめりこみそうに痛む。  抱きつぶされるみたいに胸が締め付けられる。 「ユキ。息を止めるな」  隼の吐く息がそのまま僕の喉の奥まで流れ込む。  ああそうか、呼吸を忘れてたから胸が痛むのか、と思った。  発情期のヘラジカの雄のぶつかり合いのような、暴力的な口付け。 「オレから逃げるな」  逃げるな。呼吸をしろ。噛むな、下手くそ。  激しいキスの間に激しく喉に注ぎ込まれる言葉。  男同士だと遠慮というものが無い。  後頭部が鉄の扉に何度もぶつかる。  咽を押さえ込まれねじ込まれる舌。  唇を離したあと、隼は僕の薄い胸に倒れ込んだ。  汗と唾液と血の味と。 「かがりが産んでもユキが産んでも、どっちもオレの子どもだ。そうだろう?」  憑きものが落ちたような、いっそ清々しいくらいの声音だった。  隼は倉庫の汚れた床に寝そべるような体勢で僕の胸に顔を埋めていた。  育ちすぎてしまったやんちゃな子ども。  隼を見ているといつも息が詰まりそうになる。  だけど僕はこのとき誓った。  僕は呼吸を止めない。
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