生まれなかった僕は

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生まれなかった僕は

 参道が線路の下を通る、遠慮深い神社である。  安産と子育ての神様が祀られるこの神社は昔から地元の人々に愛されており、僕の妹は、安産祈願やお宮参り、虫封じ、七五三、初詣、厄除けなど、僕より頻回にお世話になった。今は縁あって、神社の隣の古民家を改装してパン屋を開いている。  神様は気まぐれだ。神社の辺りだけ夕立を降らせた。雨に降られて困ることはないが、雨をしのぐ場所に逃げ込むのは、人間の本能なのかもしれない。僕は急いでパン屋の軒下に入った。  妹は引き戸を両手で開け、店の中から出てきた。左手の薬指にはシンプルな指輪をしている。 「そこ、濡れませんか?」  妹が初めて僕を認識してくれたことに、僕は驚いた。神様は気まぐれだ。僕の姿が妹に見えるようにしてくれた。 「どうぞ、入って下さい」  二十代も半ばに差しかかった妹は、僕を見上げ、店の中に促してくれた。僕を見て小首を傾げる。 「すみません。若い頃の父に似ていて」  空調の効いた、こぢんまりした店内には、壁に写真が飾られている。妹は、そのうちの一枚を指差した。  赤いランドセルを背負った小さな妹と両親が、桜の花をバックに撮られている。僕は父に似た人に見えるのか。興味深かった。振り袖姿の成人式の写真や、この店の開店記念の写真もある。  一番新しい写真は、神前式の写真だ。旦那さんと幸せそうに微笑む妹。僕は、自分の内からこみ上げてくるものに気づいた。そして、妹の内から感じられた、妹自身も気づいていない変化にも。  神様は気まぐれだ。僕に残された時間は少ない。その中で、僕に最初で最後のチャンスをくれたのだ。 「どうか、お幸せに」  妹は、きょとんとして僕を見つめる。 「お元気で。体には気をつけて」  せっかく入れてくれた店の中から、夕立の降り注ぐ外に出た。  安産祈願と水子供養しかされなかった僕のことを、妹は知らない。  生まれなかった僕は、夕立の中で消えた。妹とその子の幸せを祈りながら。
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