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弥兵衛と白菊
弥兵衛は、というと、その出会いから、白菊のことを忘れられずにいた。
このような身分の己に話しかけ、助け舟を出してくれた、その彼女に一目会い、
礼を伝えたい。
「しかしのう…廓遊びに染まってしまうのは」
と、独り言を呟く次第。
「しかし困った、礼は伝えねば気が晴れん」
そして、弥兵衛は自分の稼ぎから金を出し、花菱屋に顔を出しに行く事を決めた。
あの日から数日おきに訪れた廓は、やはり弥兵衛の世界とはかけ離れた世界で、煌びやかに光る灯籠に目を瞬かせた。
「ごめんくだせえ」
店先に声をかける。
「あゝ、弥兵衛さんじゃないかい」
「巳介殿!!」
店先で弥兵衛を迎えたのは花菱屋の旦那こと、巳介であった。
「よういらっしゃいましたなあ、こんな暑い日に」
巳介は素の笑顔で弥兵衛を迎え入れ座敷に案内する。巳介自身も弥兵衛の裏表のない真っ直ぐな性格に、絆されている。
「どうしても、白菊殿に礼が言いとうてなあ」
「それは?」
ふと、弥兵衛が手にしているものに目がいった。笹に包まれた何か暖かそうなもの。
「あゝ、こちらは、肉饅頭にございます、どうもこんなもんしか用意できず」
ふは、と軽く笑いながら頭を掻く弥兵衛に、巳介は叫ぶのを堪えた。
「白菊を呼んできましょうか」
「あいや、その必要はない、あいにく私には白菊殿に貢ぐほどの金は持ち合わせてはおらぬゆえ」
と、笑顔で制止する。それから、巳介に肉饅頭を包みごと託し、
「白菊殿に渡しておいてください、巳介殿」
色白な弥兵衛の肌が少し桃色に色づき、はにかんだ。
「巳介殿、如月を」
「かしこまりました」
如月は白菊とも仲の良い遊女であり、三味線の名手でもある。
襖を引いて開き、如月が入ってくる。
「もうし、弥兵衛さんや」
「如月殿、お久しゅうなあ」
「お前さま、いつになったら白菊のやつと会ってくれるんだい」
呆れたようにムッと頬を膨らませる如月を弥兵衛が静かに宥める。それでもなおそっぽをむく如月に弥兵衛は苦笑しこういった。
「正直なことを申すと、会う気はないんだ」
「これお前さま、今何と申したかえ?会う気はないたあ、全くもってどういうお心算かい」
「今言った通りだよ、如月」
「わしゃそういうことを聞いてるんじゃあないよ」
弥兵衛に詰め寄り、問い詰めようとするも、うまくかわされてしまう。
「ところで如月よ」
「?」
「久々に、連弾きでもどうだい」
「弥兵衛さんのことだから申されるとは思ってはいたものの」
「如月がやというなら強要はせん」
「あいわかった、今宵も二人、連弾きしましょうぞ」
少しの色を孕んだ言葉で、二人は夜通し三味線を弾いた。その夜の花菱屋には心地よい三味線の音が響いた。
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